滝山城(亀穴城) |
2014年03月29日 |
滝山城は16世紀半ばに奥平貞能が築いてここに居住したという。一名「亀穴城」ともいう。
天正元(1573)年8月21日、作手の亀山城にいた奥平貞能、信昌父子は武田方にそむいて亀山城を退いて、滝山城に入りました。武田方は五千の軍勢を率いて城の南面下の万足平に押し寄せた。城はすこぶる険しくて攻めにくい。その上、援軍の徳川勢が駆けつけて武田方を包囲したこともあり、さすがの武田勢も退却した。奥平勢もこれを追って田原坂で激戦に及んだ。この戦いを滝山合戦という。
滝山城は切り立つこと百十余メートル、中腹には急造されたと思われる本丸、東の峰、天守岩などの砦跡や、また東の峰づたいに今なお空掘が残り、山城の様子がしのばれる。
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2005年02月11日 |
滝山城は16世紀半ばに奥平貞能が築いてここに居住したという。一名「亀穴城」ともいう。
天正元(1573)年8月21日、作手の亀山城にいた奥平貞能、信昌父子は武田方にそむいて亀山城を退いて、滝山城に入りました。武田方は五千の軍勢を率いて城の南面下の万足平に押し寄せた。城はすこぶる険しくて攻めにくい。その上、援軍の徳川勢が駆けつけて武田方を包囲したこともあり、さすがの武田勢も退却した。奥平勢もこれを追って田原坂で激戦に及んだ。この戦いを滝山合戦という。
滝山城は切り立つこと百十余メートル、中腹には急造されたと思われる本丸、東の峰、天守岩などの砦跡や、また東の峰づたいに今なお空掘が残り、山城の様子がしのばれる。 |
上の青空に山の写真は宮崎神社の入口付近から撮影したもので、農作業をしていた方に滝山城の場所を尋ねたところ、この山であるとのことでした。その後、亀穴城の案内板と滝の場所を探しましたが、森林組合で場所を確認し、一番上の写真の場所は役場からくらがり渓谷に向う県道沿いにありました。
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