小川城由来
足利時代、此の地は小川郷として呉胡桃郷と共に村落が開け奥利根ひいては裏日本を扼す戦略上の拠点として重要なところであった。北上州の雄沼田荘田城主沼田景久が西の備えとして此処に築城したのは明応元(1492)年で箕輪城に先立つこと34年、京に在っては足利幕府の勢力も衰え各地に土一揆等の蜂起を見、世情は飢えに苦しんでいた。此の時、沼田景久はここに二男の次郎景秋を7百貫匁(約3500石)位といわれている知行を与え住まわせ、北毛経営を固めていたが、其の後、文亀2(1502)年正月26日2代城主小川三郎景祐はもとより素行優れぬ城主なるため度々の狼藉に城を追放され其の後赦免となる。又、大峰山岳林寺の開基等を行い反省の色あるやに見えたが再びの乱行や沼田本城への討入り等狼藉の果てに落命した。
景祐敗死後は、弟秀泰が3代城主となり城を護る。小川秀泰は勇将にして岡林斉と名乗り信望を集め沼田七騎の一人としてその名を馳せた。其の後、大永2(1522)年秀泰死去し其の子彦四郎景奥の代となり小田原北条氏の勢力も次第に北関東の奥まった利根の地にも其の手を伸ばしてきた。度重なる小競り合いの中で彦四郎景奥の長子景季は若くして兵火のため焼死し其の時は永正17(1520)年9月5日の真夜中の事であった。
更に、大永4(1524)年の戦斗には城は焼かれ大将景奥も燃えたぎる酢がめの中に落ちて戦死し家を継ぐべき子息なく其の門葉の北能登守南将監等城の修覆をなす。其の頃、上方より北面の武士(京都御所警備)浪人して此の地に来る。即ち赤松則村の裔にして赤松捨五郎祐正という。客分として城内にとどまるうち次第に軍議にも加わり其の才を認められ後に景季の後家と女合せ上杉謙信の裁可を得て名跡となり小川可遊斉と名乗る。
天文16(1547)年3月15日沼田勢との菩提木に於いての合戦に沼田勢は敗退逃走した。天正8(1580)年3月小川可遊斉は小田原の北条勢に沼田勢と菩提木に再度戦い、可遊斉の戦略にかかり大敗北をなし逃走し可遊斉の名声を残す大戦果をあげた。
この報告を聞いた北条氏邦は大いに怒り同年10月数倍の兵力を以って小川城を攻む。小川可能遊斉以下将兵は激戦苦闘のすえ城は焼かれ多数の戦死者を出し、為に城をすて兼ねて用意の見城の柵にのがれ残りの将兵も続いて柵に入る。可遊斉は此の柵に在って指揮し大木大石等を没落し敵を悩ますも七百米もの高山なれば水や糧秣等の補給困難にして、須摩野口より越後路へ敗走した。小川城には城代として小川氏門葉の一人北能登守が居り真田昌幸の配下として天正20(1592)年頃迄在城した。其の後何年か城代不明の時期を過ぎ沼田真田氏の五代城主となった幼名兵吉は寛永15(1638)年より18年間真田伊賀守信澄となり、五代沼田城主を継ぐまで三の丸の陣屋に居住した。
其の後は廃城となり顧みられる事なく永い年月を草木の中に埋もれていた。
(看板資料より) |