沼田城 |
2016年08月13日 |
天文元(1532)年沼田氏12代の沼田顕泰が築城し柳町の幕岩城から移る。 |
天文元(1532)年頃に沼田顕泰によって築かれた沼田(倉内)城は、上杉・武田(真田)・北条氏などの有力大名の狭間にあり、その属城として幾多の変遷をたどってきたが、天正18(1590)年の北条氏滅亡以降は正式に真田氏の所有する城となった。真田昌幸の嫡男信幸は、初代城主として城郭の大改修を手がけ、慶長年間(1591〜1614)には五重の天守をはじめ各種櫓や門などを建造して近世城郭として整備を行った。しかし、天和元(1681)年に真田氏が改易になると城は壊された。その後、本多・黒田・土岐氏と城主は代わり明治を迎えたが、城の本格的な復興はなされなかった。 |
沼田城は、天文元(1532)年に三浦系沼田氏12代万鬼斎顕泰が約3ヶ年の歳月を費やして築いた。当時蔵内(倉内)城と称し、沼田市街地発祥のかなめで、当市の歴史の起点でもある。 |
鐘楼
真田氏が沼田城主時代は城内に建てられていたが、廃城により取り壊された。明治20年ごろ沼田町役場が東北隅に楼を建てて柳町歓楽院の梵鐘を借りて時の鐘にした。十年後に楼を修復した際その鐘を返し平等寺で保存の城鐘を懸け替えた。
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2003年09月27日 |
天文元(1532)年沼田氏12代の沼田顕泰が築城し柳町の幕岩城から移る。 |
本丸跡
沼田城は、天文元(1532)年に三浦系沼田氏12代万鬼斎顕泰が約3ヶ年の歳月を費やして築いた。当時蔵内(倉内)城と称し、沼田市街地発祥のかなめで、当市の歴史の起点でもある。 |
鐘楼
真田氏が沼田城主時代は城内に建てられていたが、廃城により取り壊された。明治20年ごろ沼田町役場が東北隅に楼を建てて柳町歓楽院の梵鐘を借りて時の鐘にした。十年後に楼を修復した際その鐘を返し平等寺で保存の城鐘を懸け替えた。 |
沼田城跡西櫓台の石垣・石段
天文元(1532)年頃に沼田顕泰によって築かれた沼田(倉内)城は、上杉・武田(真田)・北条氏などの有力大名の狭間にあり、その属城として幾多の変遷をたどってきたが、天正18(1590)年の北条氏滅亡以降は正式に真田氏の所有する城となった。真田昌幸の嫡男信幸は、初代城主として城郭の大改修を手がけ、慶長年間(1591〜1614)には五重の天守をはじめ各種櫓や門などを建造して近世城郭として整備を行った。しかし、天和元(1681)年に真田氏が改易になると城は壊された。その後、本多・黒田・土岐氏と城主は代わり明治を迎えたが、城の本格的な復興はなされなかった。 |
沼田城御殿桜
沼田城の天守閣が5層の雄姿を誇っていたところに植えられ、今残っている沼田城形見の名木である。沼田城は初め蔵内城と称した。約440年前、沼田氏12代の沼田万鬼斎顕泰が、3ヶ年かかって天文元(1532)年4月完成され、柳町の幕岩城から引移った。 |
平八石の由来
沼田平八郎景義の首級を載せた石、平八郎は沼田城(蔵内城)を築いた沼田氏12代顕泰の側室の子で、摩利支天の再来とまでいわれた勇将。顕泰は城を嫡子朝憲に譲り、平八郎を連れ川場村天神城へ隠居したが、側室とその兄金子美濃守らにそそのかされて、永禄12(1569)年正月、朝憲を呼びよせて謀殺。そのため顕泰、平八郎は沼田勢に追われ会津へ逃げた。 |
沼田城本丸堀跡
沼田城二ノ丸(野球場)から本丸(現在の花壇)の間に設けられた堀は、幕府に提出した絵図(正保城絵図)によると、本丸側に唯一石垣が積まれた沼田城でも最も規模が大きな堀でした。絵図には堀幅12間(約24m)で本丸に入る櫓門付近の石垣高は3間(約6m)と記されています。奥に見える池がこの堀の名残で、右側の石垣は天守があった真田氏の頃の石垣の一部と考えられています。
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