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群馬県沼田市

沼田城

2016年08月13日

天文元(1532)年沼田氏12代の沼田顕泰が築城し柳町の幕岩城から移る。
【上杉氏支配】
永禄9(1566)年、顕泰は子の朝憲に城主を譲り、側室とその子平八郎を連れて川場村天神城へ隠居したが、平八郎を城主にしたいため、同12年正月、朝憲を呼びよせて殺した。顕泰・平八郎は沼田勢に追われて会津へ逃走。上杉謙信が柴田右衛門尉を城代にした。
【北条氏〜真田氏支配】
天正6(1578)年謙信死去。代って小田原の北条氏政・氏直父子が支配。天正8(1580)年6月、真田昌幸が入城。翌9年3月、平八郎は沼田城奪還のため来攻したが、昌幸の策に乗った金子美濃守に城内で謀殺され、沼田氏滅亡。
【滝川氏城代】
天正10年、織田信長が滝川儀太夫を城代にしたが、6月信長が本能寺で討たれ、滝川は去り、真田の一族矢沢頼綱城代となる。
【真田氏城主】
天正17(1589)年真田氏は北条氏と和し、北条氏の有となったが翌年北条氏が、真田の所領名胡桃城を略奪したため豊臣秀吉は怒って小田原の北条氏を撃滅し、沼田を真田昌幸に与え、昌幸の長子信幸が初代沼田城主となる。元和2年、子の信吉。寛永12年信吉の長子熊之助。同16年、信吉の弟信政を経て明暦3(1657)年信吉の庶子伊賀守信直五代城主となる。
【沼田真田氏滅亡】
天和元(1681)年11月、幕府は悪政を理由に伊賀守を追放。3万石の領地を没収。五層の威容を誇った沼田城は破却された。
【代官時代】
以来5人の代官あ在任。
【本多氏】
元禄16(1703)年、本多正永が城を再建。2代正武、3代正矩が城主。享保15年、後藤庄左衛門が代官となる。
【黒田氏】
享保17(1732)年から11年間、黒田直邦、直純が城主。
【土岐氏〜明治】
寛保元(1742)年、土岐丹後守頼稔(寺社奉行、大阪城代、京都所司代、老中を歴任)が駿河国田中から移封されて沼田城主となり、以来12代土岐隼人正頼知が、明治2(1869)年版籍を奉還するまで、127年間城主であった。
(看板資料より)

天文元(1532)年頃に沼田顕泰によって築かれた沼田(倉内)城は、上杉・武田(真田)・北条氏などの有力大名の狭間にあり、その属城として幾多の変遷をたどってきたが、天正18(1590)年の北条氏滅亡以降は正式に真田氏の所有する城となった。真田昌幸の嫡男信幸は、初代城主として城郭の大改修を手がけ、慶長年間(1591〜1614)には五重の天守をはじめ各種櫓や門などを建造して近世城郭として整備を行った。しかし、天和元(1681)年に真田氏が改易になると城は壊された。その後、本多・黒田・土岐氏と城主は代わり明治を迎えたが、城の本格的な復興はなされなかった。
発掘調査により派遣されたこの石垣や石段は、西櫓台(前方の小高い部分)に伴うものであり、出土した瓦などから真田氏時代の遺構と考えられる。5代城主信利(信澄)の改易により、翌年城は跡形もなく破却されたと云われていたが、壊されずに地中に埋められていた部分が、300年以上を経て再び往時の姿を現わしたのである。
(看板資料より)

沼田城は、天文元(1532)年に三浦系沼田氏12代万鬼斎顕泰が約3ヶ年の歳月を費やして築いた。当時蔵内(倉内)城と称し、沼田市街地発祥のかなめで、当市の歴史の起点でもある。
築城して48年後の天正8(1580)年武田勝頼の武将真田昌幸が入城し、城の規模を広げた。天正18(1590)年昌幸の長子信幸が沼田領2万7千石の領主となり、慶長年間に五層の天守閣を建造した。天和元(1681)年に真田氏五代城主伊賀守が徳川幕府に領地を没収され、翌2年1月に沼田城は幕府の命により破壊された。その後、本多氏が旧沼田領177ヶ村のうち46ヶ村・飛地領合わせ4万石の藩主として入封し、幕府の交付金で城を再興し三の丸に屋形を建てた。次いで、黒田氏2代、土岐氏12代の居館となったが、明治になって版籍奉還し屋形も取り壊された。時を経て本丸・二の丸跡が、現在の沼田公園に変貌した。
(看板資料より)

鐘楼

真田氏が沼田城主時代は城内に建てられていたが、廃城により取り壊された。明治20年ごろ沼田町役場が東北隅に楼を建てて柳町歓楽院の梵鐘を借りて時の鐘にした。十年後に楼を修復した際その鐘を返し平等寺で保存の城鐘を懸け替えた。
以来鐘楼堂と呼ばれ、戦時下にも供出をまぬがれたその鐘の音は、永く市民に親しまれてきた。昭和39年市役所庁舎建設に際し撤去されたが、市民の熱望により城の本丸跡のここに移して復元新築された。
(看板資料より)

 



2003年09月27日

天文元(1532)年沼田氏12代の沼田顕泰が築城し柳町の幕岩城から移る。
【上杉氏支配】
永禄9(1566)年、顕泰は子の朝憲に城主を譲り、側室とその子平八郎を連れて川場村天神城へ隠居したが、平八郎を城主にしたいため、同12年正月、朝憲を呼びよせて殺した。顕泰・平八郎は沼田勢に追われて会津へ逃走。上杉謙信が柴田右衛門尉を城代にした。
【北条氏〜真田氏支配】
天正6(1578)年謙信死去。代って小田原の北条氏政・氏直父子が支配。天正8(1580)年6月、真田昌幸が入城。翌9年3月、平八郎は沼田城奪還のため来攻したが、昌幸の策に乗った金子美濃守に城内で謀殺され、沼田氏滅亡。
【滝川氏城代】
天正10年、織田信長が滝川儀太夫を城代にしたが、6月信長が本能寺で討たれ、滝川は去り、真田の一族矢沢頼綱城代となる。
【真田氏城主】
天正17(1589)年真田氏は北条氏と和し、北条氏の有となったが翌年北条氏が、真田の所領名胡桃城を略奪したため豊臣秀吉は怒って小田原の北条氏を撃滅し、沼田を真田昌幸に与え、昌幸の長子信幸が初代沼田城主となる。元和2年、子の信吉。寛永12年信吉の長子熊之助。同16年、信吉の弟信政を経て明暦3(1657)年信吉の庶子伊賀守信直五代城主となる。
【沼田真田氏滅亡】
天和元(1681)年11月、幕府は悪政を理由に伊賀守を追放。3万石の領地を没収。五層の威容を誇った沼田城は破却された。
【代官時代】
以来5人の代官あ在任。
【本多氏】
元禄16(1703)年、本多正永が城を再建。2代正武、3代正矩が城主。享保15年、後藤庄左衛門が代官となる。
【黒田氏】
享保17(1732)年から11年間、黒田直邦、直純が城主。
【土岐氏〜明治】
寛保元(1742)年、土岐丹後守頼稔(寺社奉行、大阪城代、京都所司代、老中を歴任)が駿河国田中から移封されて沼田城主となり、以来12代土岐隼人正頼知が、明治2(1869)年版籍を奉還するまで、127年間城主であった。
(看板資料より)

本丸跡

沼田城は、天文元(1532)年に三浦系沼田氏12代万鬼斎顕泰が約3ヶ年の歳月を費やして築いた。当時蔵内(倉内)城と称し、沼田市街地発祥のかなめで、当市の歴史の起点でもある。
築城して48年後の天正8(1580)年武田勝頼の武将真田昌幸が入城し、城の規模を広げた。天正18(1590)年昌幸の長子信幸が沼田領2万7千石の領主となり、慶長年間に五層の天守閣を建造した。天和元(1681)年に真田氏五代城主伊賀守が徳川幕府に領地を没収され、翌2年1月に沼田城は幕府の命により破壊された。その後、本多氏が旧沼田領177ヶ村のうち46ヶ村・飛地領合わせ4万石の藩主として入封し、幕府の交付金で城を再興し三の丸に屋形を建てた。次いで、黒田氏2代、土岐氏12代の居館となったが、明治になって版籍奉還し屋形も取り壊された。時を経て本丸・二の丸跡が、現在の沼田公園に変貌した。
(看板資料より)


鐘楼

真田氏が沼田城主時代は城内に建てられていたが、廃城により取り壊された。明治20年ごろ沼田町役場が東北隅に楼を建てて柳町歓楽院の梵鐘を借りて時の鐘にした。十年後に楼を修復した際その鐘を返し平等寺で保存の城鐘を懸け替えた。
以来鐘楼堂と呼ばれ、戦時下にも供出をまぬがれたその鐘の音は、永く市民に親しまれてきた。昭和39年市役所庁舎建設に際し撤去されたが、市民の熱望により城の本丸跡のここに移して復元新築された。
(看板資料より)


沼田城跡西櫓台の石垣・石段

天文元(1532)年頃に沼田顕泰によって築かれた沼田(倉内)城は、上杉・武田(真田)・北条氏などの有力大名の狭間にあり、その属城として幾多の変遷をたどってきたが、天正18(1590)年の北条氏滅亡以降は正式に真田氏の所有する城となった。真田昌幸の嫡男信幸は、初代城主として城郭の大改修を手がけ、慶長年間(1591〜1614)には五重の天守をはじめ各種櫓や門などを建造して近世城郭として整備を行った。しかし、天和元(1681)年に真田氏が改易になると城は壊された。その後、本多・黒田・土岐氏と城主は代わり明治を迎えたが、城の本格的な復興はなされなかった。
発掘調査により派遣されたこの石垣や石段は、西櫓台(前方の小高い部分)に伴うものであり、出土した瓦などから真田氏時代の遺構と考えられる。5代城主信利(信澄)の改易により、翌年城は跡形もなく破却されたと云われていたが、壊されずに地中に埋められていた部分が、300年以上を経て再び往時の姿を現わしたのである。
(看板資料より)


沼田城御殿桜

沼田城の天守閣が5層の雄姿を誇っていたところに植えられ、今残っている沼田城形見の名木である。沼田城は初め蔵内城と称した。約440年前、沼田氏12代の沼田万鬼斎顕泰が、3ヶ年かかって天文元(1532)年4月完成され、柳町の幕岩城から引移った。
顕泰は三男朝憲に13代城主を譲り、川場村天神城に隠居したが、後妻の子4男平八郎景義を城主にせんと企て、永禄12(1569)年正月、朝憲の謀殺。ために沼田氏は築城後37年間にて滅びた。
以来沼田城は上杉謙信、北条氏政、武田勝頼、織田信長、真田昌幸、北条氏直の支配時代を経て、天正18(1590)年真田信幸が城主となった。信幸の夫人は徳川家康の曽孫=養女=小松姫である。
信幸は関ヶ原戦に徳川方につき、戦功により父昌幸の所領上田城主を兼ねたが、慶長9(1604)年この御殿桜の処に3階建の隅櫓(水の手曲輪門)を築造。ついで慶長12(1607)年今の利根英霊殿の処に5層の天守閣を築造(間口10間奥行き9間)本丸の外郭に土塀を築くなど、名城を完成させた。
それから77年後の天和元(1681)年11月、5代城主信直が徳川幕府に沼田領3万石を没収され、城郭は跡形もなく取壊された。名城は姿を消したが、この御殿桜は400年の風雪に耐え、根は古塁の石垣をしっかり抱き、春ごとに寂寥の色をたたえた花を開き、興亡の歴史を語りつづけている。
(看板資料より)


平八石の由来

沼田平八郎景義の首級を載せた石、平八郎は沼田城(蔵内城)を築いた沼田氏12代顕泰の側室の子で、摩利支天の再来とまでいわれた勇将。顕泰は城を嫡子朝憲に譲り、平八郎を連れ川場村天神城へ隠居したが、側室とその兄金子美濃守らにそそのかされて、永禄12(1569)年正月、朝憲を呼びよせて謀殺。そのため顕泰、平八郎は沼田勢に追われ会津へ逃げた。
平八郎は12年の後、沼田城奪還の兵を挙げて沼田に迫った。真田昌幸は戦って平八郎に勝てないと知り、城中にいた金子美濃守をだました。貪欲な美濃守は己が栄進したいがため平八郎に会い武装を解き、こっそり城内に入れて「お前が必ず城主になれるようにしてやる」と偽り、城内へ誘い入れて殺害した。風雲児の最後また哀れだった。
時に天正9(1581)年3月14日(一説には15日)42歳。平八郎の首級は昌幸が首検の後、この石の上に置いた。亡骸は町田町の小沢城址に葬り、沼田大明神として祀ったが首級は此処から亡骸を埋めたところまで飛んで行ったという。
(看板資料より)


沼田城本丸堀跡

沼田城二ノ丸(野球場)から本丸(現在の花壇)の間に設けられた堀は、幕府に提出した絵図(正保城絵図)によると、本丸側に唯一石垣が積まれた沼田城でも最も規模が大きな堀でした。絵図には堀幅12間(約24m)で本丸に入る櫓門付近の石垣高は3間(約6m)と記されています。奥に見える池がこの堀の名残で、右側の石垣は天守があった真田氏の頃の石垣の一部と考えられています。
平成9年に、この植え込みの中を発掘調査したところ、池の石垣に連なる石垣の一部と堀の中に崩された石や多くの瓦が出土しました。おそらく地中には更に北側数十mに渡り石垣の下部が現存し、城が破却された際に埋め立てられたおびただしい瓦や石が埋没していると考えられます。出土した軒丸瓦は三巴紋で、その周囲を巡る珠点は16個を数え、信州の上田城出土瓦などとの類似性が認められています。
(看板資料より)

 

 
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