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山梨県韮崎市

長清寺

2008年01月03日

山梨県の武田氏伝説によると、福性院の山中に小笠原長清の墓らしいものがあるとのことでしたので福性院に立ち寄りました。しかし残念ながら福性院には誰もいないようで断念。しかし地図を見てみると、近くに長清寺というお寺があることが判明。とりあえずこちらにも立ち寄ってみました。しかし本堂は閉められたままで誰もいなさそうでした。本堂右側に登ってみましたがお墓が数基あるだけでした。あきらめて帰ろうとしたのですが、本堂の左奥になにやら立派な供養塔を発見してしまいました。近寄ってみるとなんと立派な看板もありました。看板には小笠原長清の供養塔と紹介されていましたが、実際の供養塔には小笠原長清の墓と彫られていました。

伝小笠原長清供養塔
現在、長清寺境内にある五輪塔ニ基は、平安時代末期から鎌倉時代初頭の甲斐源氏の雄、小笠原長清の供養塔と伝えられる。
小笠原長清は応保2(1162)年3月5日、加賀美遠光の二男に生まれた。13歳で元服し兄秋山光朝とともに平知盛に仕えたが、治承4(1180)年、源頼朝が平家討伐に挙兵すると甲斐国へ帰国し参陣、以降頼朝の信任を得て阿波国守護を任じられ、小笠原氏繁栄の礎を築いた。仁治3(1242)年7月15日、京都東山の館で81歳で没した。
2基の五輪塔のうち大型の五輪塔は、現高1.1メートル、茅ケ岳山麓の存地石材のデイサイト製で、空風輪を欠き、火輪も当初品か定かでない。水輪には梵字が刻まれる。月輪は風化が著しく不鮮明である。地輪に墨銘はみられない。この五輪塔はかつて寺の東南の畑中にあったというが、昭和14年長清寺住職筒井覚明師(当時)と檀家により、長清寺内に移された。小型の五輪塔は現高0.9メートル、デイサイト製で、当初の組合せは残っていない。現在地より西方150メートルの水田中にあり、「疣地蔵」と通称されていたが、30年ほど前に寺中に移されたという。水輪に「長清栄曽」と小笠原長清戒名が刻まれるが、追刻と思われる。
大型の五輪塔は、火輪の軒先が垂直に切られ隅角から中央まで厚さが一定で比較的薄く、やや背が高く降り棟は直線的で、水輪は大きめの梵字を薬研彫りで刻む。しかし山梨県内の鎌倉時代・南北朝時代の五輪塔の特徴である月輪は不明瞭で凝灰岩を用いていない。こうした型式上の特徴から14世紀中葉以降の造塔と推測される。
小笠原長清の苗字の地は、現山梨県(南アルプス市)櫛形町小笠原と現明野村小笠原のいずれかとされ、後代の小笠原氏が追善供養のためこの地に造塔した可能性は否定できない。長清寺および福性院の周辺には多数の大小五輪塔が残る。福性院は中世、金峰山信仰に深く係った寺院であり、小笠原氏に限らず諸豪族が金峰山浄土への往生を願って造塔したとも考えられる。小笠原の地が浄土にあこがれる人々の信仰を集めたことを物語る歴史資料として貴重である。
(看板資料より)

 

 
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