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山梨県富士河口湖町

本栖石塁

2012年11月25日

本栖の城山周辺樹海のなか、上九一色中学校入口付近から城山の北側までの山裾に、いくつかの溶岩の石積みが残っている。樹海内を通ずる道路によって一部破壊された部分もあるが、往時はその間を中道往還が通っていたものと考えられる。一抱えほどもある溶岩を積み上げた直線に伸びる石塁、部分を鉤の手状に曲げた石塁、L字型に屈曲した石塁、あるいはまた、山寄り側は開口し南側は桝型虎口状の石塁などである。長い年月の間に溶岩は風化し石積みは崩れかけ、あるいは東海自然歩道によって分断されるなどして昔日の面影を留めないが、それら石塁のうち城山南側のものは、甲斐側が垂直に駿河側は階段状に、それ以外は駿河側が垂直状に切り立ち甲斐側は階段状に作られていて、これらの石塁は武田氏時代、本栖の城山防御のための一施設として構築されたものと考えられ、また石塁の構造の差異については、武田氏滅亡後の徳川方の構築によるものではないかとされている。いずれにせよ、これら石塁は、戦国期この場所を通過していたと考えられる甲駿間の主幹線中道往還を取り込み、軍事的関門として、本栖の城山や中道往還と密接なかかわりのうちに機能していたのではないかと考えられている。
(上九一色村の史跡より)

 

 
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