耳取城 |
2009年05月05日 |
天文12〜13(1543-1554)年頃、佐久は甲斐から侵入した武田氏の支配下に入ったが、耳取城主大井安満も武田氏に降っている。武田氏滅亡後は一時関東から入った北条氏に属したが、天正10(1582)年には徳川家康の配下である依田信蕃に降って、城主大井政成は信蕃とその子松平康国に仕え、康国の上野藤岡移封にあたり、それに従って耳取城を去った。 |
長野県道78号佐久小諸線を北から南に走行していると右側に史跡耳取城跡の石碑がありました。千曲川の方に行ってみると崖の下の広場で老人を見かけたので耳取城について聞いてみましたが、見る影もないとの言葉が印象的でした。石碑のところから中に入って行くように教えてもらいました。そちらに入って行くと人がいたのでお話を聞きました。水路になっているところや現在砂利道になっているところが当時空堀だったところであるとのことでした。その周辺には以前は郭があったが削ってしまって堀の高さと同じになっているとのことでした。削ったあとが今でも残っていて当時の堀の深さを窺い知ることができました。また近くには鷹取山という山があって見晴台になっていて昔はよく遊びに行ったが今では危険なので近づけないとのことでした。 |
また反対側の郭は削られずにそのまま残っていましたがそれでも3mくらいは低くなってしまったとのことでした。奥の方に本丸があったと伝えられているそうです。
|
→玄江院
|