森山城 |
2009年05月05日 |
天文9(1540)年から天文13年頃にかけて、佐久はおおむね、甲斐の武田氏に降るが、その中に森山成繁・満繁もいた。武田氏滅亡後、森山氏は、いち早く徳川家康の配下依田信蕃に従い、軍功を立てているが、その間の動きについて「寛永諸家系図伝」は、「森山俊盛甲州落居の時、勝頼に従い諏訪より新府にいたる。勝頼、俊盛につげて曰く、士卒を集め武田左馬助に従うべし。左馬助もし籠城せば汝必ず後詰をすべしとなり、是によりて俊盛森山の城に赴き、後詰のかなへをなす。其の間に左馬助小諸にをいて自殺す。」 近所で犬の散歩をしていた方によれば、森山多目的共同利用施設の敷地内に森山城の碑が立っているとのことでした。施設の場所はすぐに分かりました。火の見櫓が目印です。確かに敷地内に信州森山故城碑と百番供養塔が並んで建っていました。周辺はすっかり住宅地になっていて遺構を確認することはできませんでした。
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