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長野県小川村

真那板城

2009年05月03日

山の中段にあり、北は険しく東西二百余間(約360m)の中に、中の城、天神城があり、峰続きの長い城である。北東に当たって五町(約545m)余有、谷川を隔てて根古屋がある。地名を下垂、また霜末という。天文年中に大日方民部讃岐入道直政の四男四郎内膳正直龍がここに住んでいた。その子の直明は武田晴信に属した。その後、直房、直充と続き、直智は元和年中に真田信之に従い、二百石を得た。この家に代々安置された毘沙門天は信玄が崇敬した霊神で、永禄年間信玄が構えの丑寅(東北)に堂宇を建立し、重い軍議の時には必ずこの堂に集まった。天正十(1582)年武田氏が滅亡した時、この霊神を捨てておくわけにはいかないので、大日方直明が毘沙門天を背負って戦い、信州へ運んだものである。
(長野県町村誌より)

井戸跡

まず小川村役場に行きました。日直は若い男性でした。真那板城の場所を聞いたら熱心に調べてくれました。誰かに電話で聞いていましたが、その間に村の観光マップを見せてもらったら明松寺というお寺の近くにあるとのことでした。明松寺では真那板城の場所は分かりませんでした。観光マップを頼りにして東の方に行ってみたら農作業をしている男性がいたので聞いてみると彼は知っているようでした。しかし本当に何もないところだと教えてくれました。遊歩道も看板も案内も何もかもないとのことでした。しかし場所だけは教えてくれました。教えてもらった場所まで行ってみましたがどこから登ればいいのか分からずに考えていたら、薪割をしている人がいたので聞いてみました。すると彼も知っていたようで丁寧に教えてくれました。登ってみると確かに登山道のようなものはありませんでした。しかし本郭と思われる部分やその下方には帯郭らしきものもありました。遊歩道がないので逆にそのままの姿が残されていたような気がしました。そして本郭から降りてきたところで先ほどの薪割の人が登ってきてくれました。彼によると以前は空掘りの跡などもあったらしいのですが木を伐採して運び出す時に全部埋めてしまったとのことでした。また井戸跡の場所も教えてくれました。

 

 
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