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長野県小川村

小川村郷土歴史館

2009年05月03日

小川村役場で真名板城の場所を聞いたときに、役場の人が小川村郷土歴史館に行けば大日方氏に関する展示をしているので是非行ってみてくださいと教えてくれました。


鎧兜

川中島の合戦で実際に使用されたもの。また、寅年・申年に開催される御柱祭には、小川神社氏子長として代々この鎧をまとって参列している。

大日方氏
大日方初代長政は、信濃守護として世襲十代に及んだ小笠原家の出であります。長政ははじめ長利といい、小笠原貞綱の四男でしたが、兄長棟に子が無かったことから、その相続を約定されていました。しかしその後長棟に実子長時が生まれたことから不和が生じ、小笠原家の離れ安曇郡広津村大日方の地に居館城砦をかまえ、その地名から大日方を氏称しました。
大日方長政は大日方の地に居住後、更級郡牧の島の香坂安房守を頼りました。当時小笠原家と北信濃の勢力を二分していた村上顕国は、小川庄布留山(古山)城主小川左衛門定縄追討を命じ、安房守は長政とともに布留山城を攻めこれを破りました。安房守は長政の戦功を称え、小川郷を長政に与えました。
ここに大日方氏による小川郷統治のの歴史が始まったのです。大日方氏はその後、上杉・武田が合いまみえた、いわゆる川中島の戦いでは、武田勢に組して武勲を重ね、その地位を急速に伸ばして行ったのであります。
(説明資料より)

大日方氏の家紋
家紋の起こりは、平安時代に公家が牛車や衣服に模様を施したことに始まるといわれる。大日方家は「丸に二つ引両」で両紋である。
この紋は、もと戦の陣幕の文様であったのが転じて家紋となったものである。源平時代母衣や手綱、盾などに二つ引両の文様が描かれていたことが当時の軍記物に見える。家紋としては新田氏の大中黒、足利氏の二引両が有名であるがその起源は明らかではない。
大中黒は新田氏が滅んで後は、その分流である岩松・由良氏が徳川期に用いたのみであるが、二両引きは、後に将軍家の紋として権威を持った。二両引を単独で用いるのは、足利一門か将軍より下賜された家で、室町末期の細川・織田氏などがそれである。徳川将軍家は先祖を新田氏に付会したことから、大中黒を用い、また、将軍ということで二引両を幕紋としたといわれる。
二引両の家紋は吉良、渋河、畑山、上野、一色、桃井他百二十九家の諸氏が用いた。
大日方家がなぜ二引両を用いたのかは、証するものが無い。裏紋に三階菱を用いているのは、小笠原氏からのものである。
(説明資料より)

 

 
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