桑山茂見は武田方の小笠原若狭守長詮の家臣である。永禄4(1561)年9月10日、霧の中での混戦と上杉軍の奇襲攻撃で、武田軍は武田典厩信繁、山本勘助、諸角豊後守が相次いで討死した。
小笠原若狭守も三階菱の旗を立てて奮戦したが、家来もほとんど討たれ、若狭守も上杉軍に囲まれてしまった。今はこれまでと敵中に討って出ようとする時、桑山茂見が押し留め、「私が身代わりとなります。殿は逃れて再起を。」と戒め、主人の鎧、兜を着し、若狭守に姿を変えて主君の愛刀「狐丸の太刀」を振りかざして敵中に討って出て戦死した。この茂見の働きにより、若狭守は越後の雑兵にまぎれて窮地を脱したという。
合戦後、散乱した死体や武具類をかき集めた塚に、夜な夜な狐が集まるのを里人が不思議に思い、塚を掘ったところ、狐丸の太刀が現れたため、里人は茂見の死を哀れんで、墓を建てて茂見の霊を弔ったという。
(看板資料より)
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