←前のページ トップページ↑ 次のページ→

長野県諏訪市

桑原城

2014年05月18日

二の丸から見た本丸

武田信玄の諏訪攻めと桑原城
桑原城は戦国時代の山城であり、諏訪惣領家の本拠である上原城(茅野市)の支城の役割を担った重要な場所でした。
天文4(1535)年には惣領家の諏訪頼満と甲斐国守護の武田信虎が諏訪社の宝鈴を鳴らして和睦、信虎の娘禰々が頼満の孫頼重に輿入れし、諏訪・武田両家は同盟関係を結んでいました。その関係が崩れたのが、惣領を継いだ諏訪頼重が天文10(1541)年に関東管領上杉憲政と単独で講和を結んだことに対する報復か、翌11(1542)年、父信虎を追放した武田晴信(後の信玄)が諏訪に攻め入ったことによります。
上社神長の記録「守矢頼真書留」によれば、そのころ諏訪では災害や飢饉、対小笠原氏や佐久方面での戦いが続き、民衆が疲れ果てていたため、高遠頼継らと結んだ武田勢を迎え撃つ勢力には差が歴然としていたといいますが、頼重は奇襲策を嫌い、正々堂々と戦おうとしていました。
7月2日夜、劣勢のまま居城である上原に火をかけて桑原城へ退却、3日の夕方には戦闘に備えるために検分しようと「つるね」(足長神社へ続く尾根か)を下った頼重を見た家臣が、頼重が城を捨てたと思い逃げていってしまったため、20人ほどで夜を明かし、4日、甲州勢の使者を受け入れ城を明け渡すことにしました。その後、頼重は甲府へ連行され、東光寺で自刃しました。
このように桑原城は、諏訪惣領家最後の舞台となりました。
(看板資料より)


二の丸から諏訪湖と北アルプス

私の元上司によると、左から西穂高岳、奥穂高岳、涸沢岳、北穂高岳、大キレット、南岳、蝶ヶ岳、槍ヶ岳だそうです。


本丸

本丸

桑原城は一名を高鳥屋(たかとや)城ともいい、諏訪惣領家の本拠上原城の支城として要害を誇った山城である。甲州街道から約200メートル北に位置し、本丸は空濠より高さ6メートル、東西33メートル、南北25メートル、面積はおよそ600平方メートルあり、空濠を隔てて西側の二の丸に続く。
天文11(1542)年7月4日、諏訪頼重は武田信玄に攻められて上原城からのがれ、ここで敗れた。頼重は甲府に送られ、
おのずから 枯れ果てにけり、草の葉の 主あらばこそ またもむすばめ
の辞世を残して割腹し、諏訪惣領家は一旦滅亡したという悲史を伝えている。
いま東光寺(甲府市)に、頼重と弟の大祝頼高を祀る小さな五輪塔二基が建っており、また志賀神戸の頼重院には頼重を祀る供養塔がある。
(看板資料より)

本丸裏の土塁


西曲輪


首塚


東曲輪


空掘



2003年07月05日

桑原城は一名を高鳥屋(たかとや)城ともいい、諏訪惣領家の本拠上原城の支城として要害を誇った山城である。甲州街道から約200メートル北に位置し、本丸は空濠より高さ6メートル、東西33メートル、南北25メートル、面積はおよそ600平方メートルあり、空濠を隔てて西側の二の丸に続く。
天文11(1542)年7月4日、諏訪頼重は武田信玄に攻められて上原城からのがれ、ここで敗れた。頼重は甲府に送られ、
おのずから 枯れ果てにけり、草の葉の 主あらばこそ またもむすばめ
の辞世を残して割腹し、諏訪惣領家は一旦滅亡したという悲史を伝えている。
いま東光寺(甲府市)に、頼重と弟の大祝頼高を祀る小さな五輪塔二基が建っており、また志賀神戸の頼重院には頼重を祀る供養塔がある。
(看板資料より)

本丸


桑原城へは2ヶ所から行くことができます。それぞれ桑原口と普門寺口といいますが私は桑原口から登りました。桑原口からは急な坂を登っていきますが麓に車を駐車するスペースがあります。しかし私は車で坂を登ってしまいました。登りきったところに車を止めてそこから歩きましたがそこから本丸まではそんなに時間はかかりませんでした。本丸の下を回りこむように歩いて行きました。いったん下って車で普門寺口まで行ってみましたがこちらは道が狭く登り口付近に車を止めるスペースもありませんでした。本丸からは諏訪湖や諏訪市が一望できて絶景でした。

 

 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→