義清亡き後の村上家を継いだのは、義清の子供として天文15(1546)年に生まれた村上景国でした。幼い時の名は源吾、始めは国清を名乗り、後に景国と改めました。彼は天文22(1553)年8月、父と共に上杉謙信のもとに身を寄せました。そして謙信の家臣として活動し、永禄から元亀年間(1558〜73)頃、織田信長や徳川家康との外交にあたり、越中魚津城を守り、加賀の番手を勤めました。
天正6(1578)年3月に謙信が亡くなると、景勝に属して景虎と戦い、功によって景勝から「景」の字を与えられ、景国と改めました。
武田氏滅亡後、景勝が北信四郡を領するにあたって、景国は天正10(1582)年8月に海津城主を命じられ、更級郡を知行し、郡司職を安堵されました。
ところが天正12年、海津城にいた屋代秀正が景勝に対して謀反を起こしたとして、景国は海津城主の地位を罷免され越後に召し帰されました。なお、これより先に彼は山浦家の名跡を継いでいますから意識的にも北信の名家村上氏は消えつつあったのです。その後景国は文禄元(1592)年に亡くなったとされています。
(「村上義清とその一族」より抜粋)
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