村上義清の墓 |
2014年11月08日 |
この墓所は、第三代坂木代官長谷川安左衛門利次が、名家遺跡の忘失を憂え、戦国の雄村上義清公の墓所建設を思いたち、明暦3(1657)年義清公の玄孫義豊や村上氏の臣出浦氏の子孫、正左衛門清重らにはかり、自ら施主となって出浦氏所有の墓地に、義清公供養のための墓碑「坂木府君正四位少将兼兵部小輔源朝臣村上義清公神位」を寄進によって設立したものである。その後、寛保2(1742)年清重の子清平が玉垣を築き、寛政3(1791)年清平の子清命が、石柱「御墓所村上義清公敬白」を建てた。昭和45年以来諸整備補修が行われ、昭和47年墓碑の上屋と鉄柵が設置された。平成8年には全面的改修となり、現在の諸施設になった。 |
村上義清公墓所
信濃を舞台に繰り広げられた「川中島の戦い」。戦国屈指の好敵手、武田信玄と上杉謙信ばかりに脚光が当たるが、この合戦のきっかけを作ったのは信濃の剛勇・村上義清。坂城一帯の領主だった義清は、電光石火の早業で、信濃全域の掌握をもくろむ慎玄の前に立ち塞がり、一度ならず二度勝利している。
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2003年09月22日 |
この墓所は、第三代坂木代官長谷川安左衛門利次が、名家遺跡の忘失を憂え、戦国の雄村上義清公の墓所建設を思いたち、明暦3(1657)年義清公の玄孫義豊や村上氏の臣出浦氏の子孫、正左衛門清重らにはかり、自ら施主となって出浦氏所有の墓地に、義清公供養のための墓碑「坂木府君正四位少将兼兵部小輔源朝臣村上義清公神位」を寄進によって設立したものである。その後、寛保2(1742)年清重の子清平が玉垣を築き、寛政3(1791)年清平の子清命が、石柱「御墓所村上義清公敬白」を建てた。昭和45年以来諸整備補修が行われ、昭和47年墓碑の上屋と鉄柵が設置された。平成8年には全面的改修となり、現在の諸施設になった。 |