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埼玉県秩父市

熊倉城

2013年01月04日

南曲輪と本丸

熊倉城跡平面図

関東管領山内上杉の家老長尾昌賢の死後、山内顕定は昌賢の弟忠影を家老とした。しかし昌賢の子景春はこれに不満を持ち、文明6(1474)年主家山内家に反旗を翻した。これを知った扇谷上杉の家臣太田道灌は文明10(1478)年には景春を鉢形城から追い出し、文明12年6月には、景春の籠もる熊倉城を攻め、ついに景春を降伏させた。
熊倉城には井戸がなく、谷津川上流より引水していたが、城攻めの折発見され落城したと言われる。また日野、白久にはこの熊倉城に関する伝説も多く残っている。
熊倉城跡は平地面積11,446平方メートル、二条の大きな空堀や、多くの土塁の跡がうかがわれる山城である。城跡の外周は急斜面がほとんどで、まさに要害の地であったと思われる。
(看板資料より)

堀切

熊倉城は熊倉山の北麓にあたる小岳の山頂にある山城で、里人はこの山を「じょうやま」と呼んでおり、真建(馬立)城とする記載もある。安谷川と谷津川に挟まれた要害で、日野口が大手、白久口が搦手といわれる。
伝承によれば、文明10(1478)年、長尾意玄入道景春は太田道灌に攻略されて抗しきれず、鉢形城を放棄して翌年秩父に潜み、再興をはかっていたが、この時期に両神村薄の塩沢城とこの熊倉城を築いたと伝えられる。しかし塩沢城では夜討ちにあって敗走し、ここ熊倉城に逃げのびたが、水源を断たれてついに落城し、更に秩父市黒谷の瑞岩寺に隠れたところを浮け捕らえられたと伝えられる。
しかし事実は、同12年、景春の最後の拠点であった日尾城が道灌に攻略されて陥落したのち、景春は古河に逃れて古河公方足利成氏に仕えたのである。
伝承の域を出ていないが、熊倉城と谷ひとつ隔てた熊倉山山中腹に、熊倉城攻略の将といわれる武田氏の家臣小畑山城守が陣を張ったと伝えられる小畑陣がある。
(日本城郭大系より)

熊倉城入口

秩父鉄道白久駅から熊倉山登山道に向けて登っていくと、熊倉山登山道入口のところに車を止めることができるスペースがあり、山の登山道入口の向かい側に熊倉城跡への入口があります。一旦尾根に出た後は左側に進んでいくと熊倉城にたどり着くことができます。私が行った時はピンク色の紐が目印となりました。
城址の中央部分に本丸と南曲輪があって間に堀切がありました。両曲輪ともかなり大きな規模で、本丸には土塁も確認できました。
更に奥に進んでいくと徐々に降りながら、土塁や堀跡を確認することができました。小畑陣については熊倉山側とのことなので後日麓で情報を入手の上再度探してみたいと思います。

 

 
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