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山梨県甲州市

勝沼氏館跡

2014年07月12日

勝沼氏館跡内郭部と堀

勝沼氏は武田信虎の弟信友、その子信元の家系である。その行動は、『妙法寺記』『甲陽軍鑑』また石橋八幡、岩殿七社権現棟礼等により知られる。勝沼氏は御親類衆として武田軍団の一翼を担っていたが永禄3(1560)年信玄により滅ぼされた。館は日川の断崖を利用して築かれているが、対岸を往時の往還が、また館のすぐ西を南北に鎌倉往還が通過、当時の交通の要衝であり、武蔵・相模方面への警固、連絡的役割を担っていた。
館主体部は『甲斐国志』『甲斐国古城跡志』によって御所の地に相当すること、二重の堀や太鼓櫓と呼ばれる高台のあることが早くから知られていた。また、昭和45年には、古銭250枚が出土している。昭和48年県立ワインセンターの建設問題がきっかけとなり五か年にわたり山梨県教育委員会による発掘調査が行われた。その結果建物跡、門跡、水溜、溝、土塁、小鍛冶状遺構等が検出されたほか多くの遺物が出土した。遺跡は層序や溝、建物跡の重複関係によって三期にわたることが確認されている。内郭拡張の際土塁内側を削っているが、それに対応して外側に土塁を設けたことが、外側土塁下の生活面によって確認されている。内郭の構造の変遷のみならず、それが館の拡大と関連して把握することができる貴重な遺跡である。
なお、御所北西には御蔵屋敷、奥屋敷、加賀屋敷、御厩屋敷、工匠屋敷、長遠寺(信友法名は長遠寺殿)等の地名や泉勝院(信友夫人開基)があり、広大な領域に遺構が広がっている可能性もある。
(看板資料より)

東門

勝沼氏は、武田信虎の同母弟、次郎五郎信友によって興された武田親族衆の一員であり、信虎が戦国大名として台頭しようと苛烈な戦いに明け暮れていた時期に、最も信頼していた家臣でもあります。そのため、郡内の小山田氏の目付として、武相口の護りとして適地である勝沼の地に館を構えたと思われます。天文4年に信友が戦死し、その名称を継いだ嫡子信元も信玄の有力な親類衆として、また家臣として常に重要な軍事力の一端を担ってきましたが、永禄3年に逆心の企てが露見し、信玄によって処断されたといわれています。
この主郭は勝沼氏館跡の中心に相当する郭で、二重掘と二重の土塁で囲まれた敷地に建物跡、門跡、水溜、側溝、土塀など多くの遺構が検出され、当時の館内部の生活を知る上でたいへん貴重なものです。
整備は16世紀初頭のころの郭内部の様子を、建物配置や通路順路、水溜、側溝の復元によって再現しようとしたものです。
(看板資料より) 

勝沼氏館跡内郭部

この郭は、二重の堀と二重の土塁によって囲まれた内郭部の様子を再現したものです。
整備時期は発掘調査の結果から、施設として最も充実した16世紀前半頃を目標としました。館の内部は板塀により機能ごとに区分された中に大小15棟近い建物が造られ、それぞれ塀によって遮断性を高め守りを厳重にした施設配置が行われています。
北門のすぐ内側には、武者溜(広場)があり、広場を囲むように警備の武士が控える建物があります。その内側には台所と館の中心建物である主屋にいたる通路が分かれます。主屋の並びに常の御座所が並び、手前南側には特別な客を接待する会所の建物があります。常の御座所、水汲み場に近接して、主の厠があり、万一の場合には東門から回避できるようになっていました。また南西に位置する工房は鍛冶場であったと考えられ、その周辺からは金が付着した土器が発見されました。戦国期の金生産を考える上で重要な遺構といえます。
これらの遺構から、往時の中世有力武将の館内部での生活とその施設機能を窺い知ることができ、また各種建物群やそれを取り巻く水路や通路、郭内を仕切る塀など、そこに住む人達の日常を実感できる大変貴重な遺跡です。
(看板資料より)


排泥処理溝

勝沼氏館跡外郭域(東郭)
勝沼氏館は、日川扇状地の扇頂部、日川の断崖を背にした場所に位置しています。調査以前はこの辺一帯ぶどう畑として利用されていましたが、調査の結果、15世紀の館は内郭とそれを取り巻く近接する二重堀により護られた外郭帯から構成され、その後16世紀には改修し、「内郭」「北西郭」「東郭」「北郭」の4つの郭で構成されていたことがわかりました。
東郭からは職人工房の建物跡、東郭東門の外側からは家臣屋敷と考えられる建物跡が発見されました。内郭部の建物の礎石の上に柱を建てる構造で建築されているのに対し、外郭域の建物は掘った穴に柱を建てる堀立柱建築となっています。工房は出土した遺物から、木製品や金属製品の生産に関わる工房であったと考えられます。他にも堀や、土塁、内郭部へ飲料水を供給する役割を担った水溜りや水路の存在も確認されています。
堀や土塁は時代が新しくなるに従って順次東方へ移設され、東部の規模が拡大したことが分かります。これらの復元された遺構から、東郭の当時の様子を窺い知ることができ、内郭部と外郭域の性格の違いを見ることができます。
勝沼氏館跡は、今後更なる調査・整備を進めていく予定です。
(看板資料より)

木橋

 



2003年08月30日

勝沼氏供養地蔵

この理慶尼が建立した地蔵は、内郭部の太鼓櫓跡にありその後、地蔵地として護られてきましたが、いつの時代か失われ、その御姿を拝することができなくなってしまいました。
このたび、兵庫県芦屋市在住の山田鼎様(旧姓勝沼)のご寄付を受け、座像地蔵を再建し、理慶尼の思いをここに長く護り伝えることといたしました。
(看板資料より)


勝沼氏は武田信虎の弟信友、その子信元の家系である。その行動は、『妙法寺記』『甲陽軍鑑』また石橋八幡、岩殿七社権現棟礼等により知られる。勝沼氏は御親類衆として武田軍団の一翼を担っていたが永禄3(1560)年信玄により滅ぼされた。館は日川の断崖を利用して築かれているが、対岸を往時の往還が、また館のすぐ西を南北に鎌倉往還が通過、当時の交通の要衝であり、武蔵・相模方面への警固、連絡的役割を担っていた。
館主体部は『甲斐国志』『甲斐国古城跡志』によって御所の地に相当すること、二重の堀や太鼓櫓と呼ばれる高台のあることが早くから知られていた。また、昭和45年には、古銭250枚が出土している。昭和48年県立ワインセンターの建設問題がきっかけとなり五か年にわたり山梨県教育委員会による発掘調査が行われた。その結果建物跡、門跡、水溜、溝、土塁、小鍛冶状遺構等が検出されたほか多くの遺物が出土した。遺跡は層序や溝、建物跡の重複関係によって三期にわたることが確認されている。内郭拡張の際土塁内側を削っているが、それに対応して外側に土塁を設けたことが、外側土塁下の生活面によって確認されている。内郭の構造の変遷のみならず、それが館の拡大と関連して把握することができる貴重な遺跡である。
なお、御所北西には御蔵屋敷、奥屋敷、加賀屋敷、御厩屋敷、工匠屋敷、長遠寺(信友法名は長遠寺殿)等の地名や泉勝院(信友夫人開基)があり、広大な領域に遺構が広がっている可能性もある。
(看板資料より)

勝沼氏は、武田信虎の同母弟、次郎五郎信友によって興された武田親族衆の一員であり、信虎が戦国大名として台頭しようと苛烈な戦いに明け暮れていた時期に、最も信頼していた家臣でもあります。そのため、郡内の小山田氏の目付として、武相口の護りとして適地である勝沼の地に館を構えたと思われます。天文4年に信友が戦死し、その名称を継いだ嫡子信元も信玄の有力な親類衆として、また家臣として常に重要な軍事力の一端を担ってきましたが、永禄3年に逆心の企てが露見し、信玄によって処断されたといわれています。
この主郭は勝沼氏館跡の中心に相当する郭で、二重掘と二重の土塁で囲まれた敷地に建物跡、門跡、水溜、側溝、土塀など多くの遺構が検出され、当時の館内部の生活を知る上でたいへん貴重なものです。
整備は16世紀初頭のころの郭内部の様子を、建物配置や通路順路、水溜、側溝の復元によって再現しようとしたものです。
(看板資料より)

 

 
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