勝沼氏館跡 |
2014年07月12日 |
勝沼氏館跡内郭部と堀
勝沼氏は武田信虎の弟信友、その子信元の家系である。その行動は、『妙法寺記』『甲陽軍鑑』また石橋八幡、岩殿七社権現棟礼等により知られる。勝沼氏は御親類衆として武田軍団の一翼を担っていたが永禄3(1560)年信玄により滅ぼされた。館は日川の断崖を利用して築かれているが、対岸を往時の往還が、また館のすぐ西を南北に鎌倉往還が通過、当時の交通の要衝であり、武蔵・相模方面への警固、連絡的役割を担っていた。 |
東門
勝沼氏は、武田信虎の同母弟、次郎五郎信友によって興された武田親族衆の一員であり、信虎が戦国大名として台頭しようと苛烈な戦いに明け暮れていた時期に、最も信頼していた家臣でもあります。そのため、郡内の小山田氏の目付として、武相口の護りとして適地である勝沼の地に館を構えたと思われます。天文4年に信友が戦死し、その名称を継いだ嫡子信元も信玄の有力な親類衆として、また家臣として常に重要な軍事力の一端を担ってきましたが、永禄3年に逆心の企てが露見し、信玄によって処断されたといわれています。 |
勝沼氏館跡内郭部
この郭は、二重の堀と二重の土塁によって囲まれた内郭部の様子を再現したものです。 |
排泥処理溝
勝沼氏館跡外郭域(東郭) |
木橋
2003年08月30日 |
勝沼氏供養地蔵
この理慶尼が建立した地蔵は、内郭部の太鼓櫓跡にありその後、地蔵地として護られてきましたが、いつの時代か失われ、その御姿を拝することができなくなってしまいました。 |
勝沼氏は武田信虎の弟信友、その子信元の家系である。その行動は、『妙法寺記』『甲陽軍鑑』また石橋八幡、岩殿七社権現棟礼等により知られる。勝沼氏は御親類衆として武田軍団の一翼を担っていたが永禄3(1560)年信玄により滅ぼされた。館は日川の断崖を利用して築かれているが、対岸を往時の往還が、また館のすぐ西を南北に鎌倉往還が通過、当時の交通の要衝であり、武蔵・相模方面への警固、連絡的役割を担っていた。 |
勝沼氏は、武田信虎の同母弟、次郎五郎信友によって興された武田親族衆の一員であり、信虎が戦国大名として台頭しようと苛烈な戦いに明け暮れていた時期に、最も信頼していた家臣でもあります。そのため、郡内の小山田氏の目付として、武相口の護りとして適地である勝沼の地に館を構えたと思われます。天文4年に信友が戦死し、その名称を継いだ嫡子信元も信玄の有力な親類衆として、また家臣として常に重要な軍事力の一端を担ってきましたが、永禄3年に逆心の企てが露見し、信玄によって処断されたといわれています。
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