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群馬県渋川市

勝保沢城

2016年08月13日

築城年代は不明であるが、宗玄寺開基の斉藤加賀守真氏(安清)が、天正18(1590)年落城後、自分の居館跡の方一町を寄進し寺を建立したと古記録にあるから、他の赤城山西麓の城郭と同様戦国時代の頃の築城と思われる。
城主は前記の斉藤加賀守真氏(安清)であったと考えられる。因みに斉藤加賀守の墓は宗玄寺裏の墓地にある。
この城はその地形から、あるいは先記の古記録から考えてあるいは城というより居館であったかとも考えられる。
斉藤加賀守は北条幕下の猛将をうたわれた武士で、史書に散見するが、その居館(城)であったとすれば、戦国記には戦乱の嵐に巻き込まれたことは想像に難くなく、加沢記によれば、天正8(1580)年の真田氏の南方大侵攻の際、攻略を受けている。
(文化財関係資料集 赤城村教育委員会より)

 



2012年12月24日

築城年代は不明であるが、宗玄寺開基の斉藤加賀守真氏(安清)が、天正18(1590)年落城後、自分の居館跡の方一町を寄進し寺を建立したと古記録にあるから、他の赤城山西麓の城郭と同様戦国時代の頃の築城と思われる。
城主は前記の斉藤加賀守真氏(安清)であったと考えられる。因みに斉藤加賀守の墓は宗玄寺裏の墓地にある。
この城はその地形から、あるいは先記の古記録から考えてあるいは城というより居館であったかとも考えられる。
斉藤加賀守は北条幕下の猛将をうたわれた武士で、史書に散見するが、その居館(城)であったとすれば、戦国記には戦乱の嵐に巻き込まれたことは想像に難くなく、加沢記によれば、天正8(1580)年の真田氏の南方大侵攻の際、攻略を受けている。
(文化財関係資料集 赤城村教育委員会より)

見立城探索の前に情報収集のために赤城歴史資料館に立ち寄りました。駐車場の横に上の写真のような明らかに空堀の遺構を確認することができました。歴史資料館の方から勝保沢城跡であると教えていただき、関連資料も入手することができました。本郭を囲む空堀の外側にある土塁は遊歩道になっていて一周歩くことができました。

 

 
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