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千葉県睦沢町

歓喜寺


2009年09月20日

歓喜寺と勝見城
東光山歓喜寺は嘉祥年中(850年頃)慈覚大師によって上総本納に創建されましたが、長享2(1487)年土気城主酒井定隆による七里法華の改革(土気城より七里内の寺院はすべて法華宗に改宗)によって、睦沢町寺崎に移転してきました。
本堂は火災にあいますが、享保13(1728)年に再建され、不動尊像は領主吉良源六郎の寄進と伝えられています。
この歓喜寺には江戸時代三代将軍家光以下9人の将軍の御朱印状が残されており、睦沢町指定有形文化財となっています。
歓喜寺を含む一山は、勝見城址と呼ばれ、鎌倉時代のはじめに上総権介広常の弟金田小太夫頼次が居城した城址です。金田頼次は、源頼朝の平家討伐の旗揚げとともに、早くから頼朝政権の確立に協力していますが、北条氏との覇権争いに巻き込まれ、宝治合戦(1247年)以後、この城址も廃城となります。戦国時代、鏑木氏を名乗っていた子孫によって一時金田氏に復しますが、勝見城を居城としたかどうかは不明です。
地形は、馬ノ背状の主尾根にわずかな平地しかありませんが、東西の斜面に人口的な曲輪どりがみられます。まさに自然の条を利用した城郭址といえます。
(看板資料より)

 


勝見城

 

 
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