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千葉県睦沢町

勝見城


2009年09月20日

北辰妙見碑

勝見城跡
この勝見城は、上総権之介広常の弟である金田小太夫頼次の居城と伝え、広常居城といわれている高藤山城(一宮町高藤山)も東南に見ることができる。また後に上総権之介に任ぜられる千葉常秀・秀胤父子が居城する大柳館跡も南西に望むことができる。
城跡は九十九里平野との比高差約40メートルで、やせ尾根と切り立った断崖のため平地と呼べる台地は少ないが、人工的な郭どりや空掘りの作りなど、自然の地形を利用した要害を示すように立っている。
金田小太夫頼次は、この城跡より見下す長生村金田を領したことから金田氏を名乗ることになった。兄広常とは逆に源頼朝の平家討伐の旗上げ以前から三浦氏の居城衣笠城に入るなどして、頼朝政権の確立に協力していた。しかし寿永2(1183)年広常の謀殺とともに蟄居を命ぜられ、その後病死したといわれる。広常の無実は、上総一宮玉前神社に頼朝の武運長久を祈願した願文と甲冑で証明され、一族は旧領を回復することとなる。この後、頼次の孫盛常は、宝治合戦のとき三浦氏に同調した理由で蟄居を命ぜられ、所領は千葉氏のものとなる。盛常の子胤泰は叔父にあたる千葉胤定の家を継ぎ、下総鏑木氏を称し、胤泰の次男常泰は武射郡蕪木郷を領し、七代後、常信の時、旧領長柄郡に復し金田氏を称するのである。以降勢力を増す里見氏との抗争に力を発揮するようになるが、「金田氏系図」では常信は「長柄郡岩井城是依」とあり、勝見城に復したのか、別の場所に居城したのかは今後の研究課題となろう。いずれにしろ、天文年間以降には、正木氏、武田氏のいずれかの支城となったと思われる。
現在城跡周辺の環境が整備され、頂上の妙見碑や郭、空掘りなどを残した、自然と史跡の公園になっている。
(看板資料より)

勝見城曲輪

近所の方に勝見城への行き方を聞いたら、歓喜寺というお寺に行って聞けば行かれると教えてくれました。かなりの段数の階段を登り切ったところに歓喜寺があってお寺の方に聞いてみると、裏の階段を更に登って行くと観音様があり、その裏の階段を登っていくと看板などがあると教えてくれました。10分もかからずに最高地点らしい北辰妙見碑にたどり着けました。そこから勝見城曲輪に至る歩道は赤い吊り橋になっていてちょっと恐かったです。観音堂跡の先には展望台がありました。


観音堂跡

幕臣金田氏は戦国期に勝見城に拠ったとする(『寛政重修諸家譜』)。その可能性もないではないが、戦国末期には長南武田氏抱えの三ヶ城の一つであった(『関東八州諸城覚書』)。恐らく、西方の池和田城に対し、東方の支配拠点として大幅な改修ないし新規に築城したものであろう。城主は大泉伊賀守かとされるが(三ヶ谷大泉寺資料)、いづれにせよ武田氏の一族か有力家臣が入ったものと思われる。
(図説 房総の城郭より)

 


歓喜寺

 

 
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