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山梨県甲府市

金桜神社

2014年07月20日

虫切鈴の由来
武田信玄公の弟信繁は幼少の時癇の虫強く母の信虎夫人は深くこれを憂い、この鈴に願をこめて武田氏代々崇敬の厚い金桜神社に祈願しました。即ちたちどころに癇の虫おさまり、その後信繁は立派に成長して武田氏二十四将の雄として活躍し川中島の合戦に兄信玄公の身代わりとして見事な討死を遂げました。
以来四百余年金桜神社において虫切厄除の鈴として授興しております。なお、この虫切鈴は日本三土鈴の一つとして全国にその名を知られています。
(看板資料より)


鳥居

由来
御嶽(岳)とは神々の在す処、霊場なり。
雄略天皇10年歳次丙午本宮より此地に遷祀里宮と稱す。
日本武尊東征の折、此の地に至り国家鎮護の霊地也と、首鎧を納め給う因なり。正殿、幣殿、拝殿、庁屋と在り。武田太郎信義造営の中宮、正殿、拝殿、浅野弾征少弼建立の東宮、正殿あり(以上国宝)神楽殿、神供所、参篭所あり、本社東に金桜神木と稱する老大樹あり。
 いにしへの 吉野をうつすや 御岳やま
 金の花も さこそさくらめ  隆弁僧正奉納
此の残せし老杉の根の南に鐘楼あり、武田氏りょうこくの時より獄訟決し難き時公裁ありて此の鐘を撞かしめ罰を神慮に任す。故に神慮鐘起請の鐘と言われり。又此の鐘を鳴らすと必ず疾風暴雨すと云われ5月中旬迄は撞く事を禁じられたと云う。昭和30年12月此の荘厳華麗を極めた13棟の建物廃燼と化し七百有余年の歴史を伝えた文化財は瞬時にして烏有に帰す。此の古い歴史を物語るは、武田家ゆかりの社宝、文化財の神楽と七本杉、又、広大な社有林と此処に残す樹齢千五百年の杉の根に残さるるのみとなった。里宮遷座壱千五百年を記念して水晶護符の全国頒布と共に之を建てる。
(看板資料より)

日本三御嶽・三大霊場
御嶽山金櫻神社由緒
第10代崇神天皇の御代(約2千年前)各地に疫病蔓延し、天皇深く憂慮され諸国に神祗を祀って悪病退散萬民息災を祈願せしめられるこの時、甲斐国では金峰山(北方約30キロ)山頂に少彦名命を祀られたのが当社の起源である。其の後第12代景行天皇の御代日本武尊命が東国巡行の際詣でられて、六己貴命と須佐之男命を合祀され後に之を奥宮とし現在の地に里宮として金櫻神社を創建された。更に奈良朝第42代文武天皇2(約1300年前)年大和国金峰山より蔵王権現を勧請し、神仏両道となり別当以下神官、僧侶百余名が常時奉仕し、頗(すこぶ)る盛大を極める。
 以金為神 以桜為霊  金櫻神社々名の起源となる
東国の名社として関東全域を始め越後、佐渡、信濃、駿河に迄其の御神徳は及び、各国の領主、武将の崇敬も篤く、寄進された社殿は実に壮観を極め鎌倉時代の建造物は国の重要文化財に指定され、左甚五郎作の昇り龍、降り龍の彫刻類は希にみる貴重な文化財であった。
古くから日本水晶の発祥の地として火の玉、水の玉のご神宝と金の成る木と言われる神木である鬱金の櫻は生涯守の水晶のお守りと併せ特に有名である。日本渓谷美第一位の昇仙峡の景観と共に名実共に関東の大社であった境内は千古の老杉、巨木、枝を交え社有林三千町歩、秀峰奇岩屹立し、全山樹木に覆はれて真に仙境の感があった。
昭和30年12月18日仏暁突如13棟に及ぶ社殿灰じんに帰す。
ご神体、神宝等は無事であったが、昭和34年再建され現代の社殿となる。
神使は白狗と狼、祭神の道案内、交通安全守護。
虫切の鈴 日本三土鈴の一つ。水晶守 生涯守として金運と厄除け。
日本三御嶽のうち、花の御嶽とも云われる。
(看板資料より)

水晶発祥の神社
医薬禁厭(医者・薬と厄除)の神として二千年の歴史をもつ当神社の水晶守は一生涯のお守りとして六百年余りの歴史をもつものである。
(看板資料より)

甲府市指定 無形文化財
金桜神社大々神楽付面と衣裳
古くから山岳信仰の拠点として栄えた金桜神社に伝承されているこの神楽は、室町時代以来の歴史を刻むという。本来は伊勢神楽に初源を持つと伝えられるが、現在まで伝承されている26座のうちには、修験道の所作が随所に認められ、金峰山麓に育った特異性を持つ芸能である。
舞に使用される28の面と47の衣裳とを含め、市の文化財に指定されている。
(看板資料より)

山梨県指定有形文化財(工芸品)
能面、住吉蒔絵手箱、家紋散蒔絵手箱
筏散蒔絵鼓胴、武具散蒔絵鼓胴
能面は8面あり、このうち2面に「ヰセキ」1面に「出目重満」の銘がある。この井関家及び、出目家は、ともに世襲面打家として能面史上重要な家柄である。面の種類は朱銘のあるものに平太、小面、中将などがあり、素材は檜材で翁のみ桐材である。金桜神社における神事能の由緒は明らかではないが、甲斐国の総社でもあった大社であり祭日に神楽が演じられているので、この伝統から神楽と同時に神事能がかつては舞われていたものと推定される。
住吉蒔絵手箱は、住吉神社が島に浮かび松樹と太鼓橋が配されたデザインである。黒漆地に金の平蒔の文様効果が密に現われた豪華な品であり、武田信玄の母大井夫人の奉納されたものである。家紋散蒔絵手箱は、各種の家紋がデザインとして散らされている。両者とも室町時代末期の特徴をよく示している逸品である。
御岳金桜神社の宝物として神宝帳に「ヰセキ作能面武田勝頼奉納、弥左衛尉作太鼓胴武田勝頼奉納、阿古作小鼓胴仁科五郎奉納」とある。武具散蒔絵鼓胴が勝頼奉納のもので胴内に「弥左衛門尉(花押)」と漆銘があり、筏散蒔絵鼓胴が仁科五郎奉納のもので胴内に「阿古」と朱銘があるが、奉納者の記載はない。黒漆地に金の平蒔と梨地絵を巧みに配分し文様効果をあげており、品位、作柄共に優秀な工芸品である。
(看板資料より)

参道


金桜神社のスギ群

鳥居から本殿に至る長い石段の両側に鬱蒼と生い茂る杉木立がある。このうち7本が市指定の天然記念物。樹齢七百年から八百年と推定され、樹高46〜53m、幹囲は3.87〜6.90mに達する。昭和30年の火災によって、重要文化財の東宮本殿、中宮本殿と伴に周囲の巨木も焼失したが、幸いにもこれら7本のスギは難を免れ、往時の面影を残している。
太古より我が国には八百万の神々が存在するといわれ、特定の川や山・高い木や大きな石は神が坐ます場所・神が宿る場所として、それ自体が信仰の対象となっていた。
なお、神社の社殿から社務所の裏山にかけても幹囲3mを越えるスギが15本ほど存在している。
(看板資料より)


神砂


徳川家康公の碑


神木「鬱金の櫻」

創祀二千年という古い歴史をもつ当神社が里宮として約千五百年前に此の御岳の里に祀られてより神仏習合時代に入り、役の行者小角の、以金為神、以桜為霊と云う託宣より「金の成る木の金櫻」として崇められたと云う景行天皇の御代日本尊命が植えられた桜をも謂う「うこん」とは上古の昔より皇のお召物の色とされ、この染料となる植物より此の名がつけられたものと考えられる。(大坂造幣廠地内に「御衣黄」と云われる桜が此の桜に酷似しているが恐らく此の由来に起因するものだろう)
現在のこの神木は6〜7代目とも云われ4月下旬から5月上旬黄金の大輪の花をつける。
此の季節この桜を拝み水晶の守りをうけると一生涯金運に恵まれ厄難解除のご神徳をもうけられるものと全国各地からの参拝者で賑わっております。
(看板資料より)

昇・降竜記
当金櫻神社には初代左甚五郎作と伝えられる昇・降竜が奉納されており、鎌倉時代の社殿と共に全国に其の名を知られてまいりました。
昭和30年の大火により全てこれを焼失して以来各方面からこれを惜しみ再現復活が要望されてまいりました。昭和55年ご神縁により東京銀座祝橋診療所吉河孝雄医博により日展会友堀友二氏に制作依頼され同58年8月27日奉納されました。ケヤキ一本作りの全長1メートル70センチの此の竜は夫々水晶の玉を抱いております。当神社の水晶のお守りは深い関係をもっており、
 鬼をさる王なれば天魔疫病の恐れなし
 如意宝珠なれば宝に於いてあきみてり
 国を守る王なれば息災にして天か下治む
 竜王の王なれば水火に於いて自在なり
 天地の鏡なれば萬の事曇りなし
 神符なれば不死不老悪衆不入病いなし
の玉依姫命の神託通り強い霊力をもつものと信仰されたものです。
昇仙峡のもつ神秘的な風景と日本三大霊場の此の御岳の里の古い歴史の中に数多い伝説の起源ともなった昇・降竜の由来は又此の新しい竜の再現によって高いご神徳を遍く蒙られるものと信ずるものでございます。
(看板資料より)

 



2004年10月24日

韮崎から昇仙峡に向う途中、金桜神社に寄りました。境内の建物は真新しくきれいでしたが、昭和30年に火事で燃えてしまったとのこと。入口の看板には武田家代々之祈願所とも書かれていました。古府中の北方を守る御岳衆との係わり合いも深かったようです。

由来
御嶽(岳)とは神々の在す処、霊場なり。
雄略天皇10年歳次丙午本宮より此地に遷祀里宮と稱す。
日本武尊東征の折、此の地に至り国家鎮護の霊地也と、首鎧を納め給う因なり。正殿、幣殿、拝殿、庁屋と在り。武田太郎信義造営の中宮、正殿、拝殿、浅野弾征少弼建立の東宮、正殿あり(以上国宝)神楽殿、神供所、参篭所あり、本社東に金桜神木と稱する老大樹あり。
 いにしへの 吉野をうつすや 御岳やま
 金の花も さこそさくらめ  隆弁僧正奉納
此の残せし老杉の根の南に鐘楼あり、武田氏りょうこくの時より獄訟決し難き時公裁ありて此の鐘を撞かしめ罰を神慮に任す。故に神慮鐘起請の鐘と言われり。又此の鐘を鳴らすと必ず疾風暴雨すと云われ5月中旬迄は撞く事を禁じられたと云う。昭和30年12月此の荘厳華麗を極めた13棟の建物廃燼と化し七百有余年の歴史を伝えた文化財は瞬時にして烏有に帰す。此の古い歴史を物語るは、武田家ゆかりの社宝、文化財の神楽と七本杉、又、広大な社有林と此処に残す樹齢千五百年の杉の根に残さるるのみとなった。里宮遷座壱千五百年を記念して水晶護符の全国頒布と共に之を建てる。
(看板資料より)

日本三御嶽・三大霊場
御嶽山金櫻神社由緒
第10代崇神天皇の御代(約2千年前)各地に疫病蔓延し、天皇深く憂慮され諸国に神祗を祀って悪病退散萬民息災を祈願せしめられるこの時、甲斐国では金峰山(北方約30キロ)山頂に少彦名命を祀られたのが当社の起源である。其の後第12代景行天皇の御代日本武尊命が東国巡行の際詣でられて、六己貴命と須佐之男命を合祀され後に之を奥宮とし現在の地に里宮として金櫻神社を創建された。更に奈良朝第42代文武天皇2(約1300年前)年大和国金峰山より蔵王権現を勧請し、神仏両道となり別当以下神官、僧侶百余名が常時奉仕し、頗(すこぶ)る盛大を極める。
 以金為神 以桜為霊  金櫻神社々名の起源となる
東国の名社として関東全域を始め越後、佐渡、信濃、駿河に迄其の御神徳は及び、各国の領主、武将の崇敬も篤く、寄進された社殿は実に壮観を極め鎌倉時代の建造物は国の重要文化財に指定され、左甚五郎作の昇り龍、降り龍の彫刻類は希にみる貴重な文化財であった。
古くから日本水晶の発祥の地として火の玉、水の玉のご神宝と金の成る木と言われる神木である鬱金の櫻は生涯守の水晶のお守りと併せ特に有名である。日本渓谷美第一位の昇仙峡の景観と共に名実共に関東の大社であった境内は千古の老杉、巨木、枝を交え社有林三千町歩、秀峰奇岩屹立し、全山樹木に覆はれて真に仙境の感があった。
昭和30年12月18日仏暁突如13棟に及ぶ社殿灰じんに帰す。
ご神体、神宝等は無事であったが、昭和34年再建され現代の社殿となる。
神使は白狗と狼、祭神の道案内、交通安全守護。
虫切の鈴 日本三土鈴の一つ。水晶守 生涯守として金運と厄除け。
日本三御嶽のうち、花の御嶽とも云われる。
(看板資料より)

水晶発祥の神社
医薬禁厭(医者・薬と厄除)の神として二千年の歴史をもつ当神社の水晶守は一生涯のお守りとして六百年余りの歴史をもつものである。
(看板資料より)

甲府市指定 無形文化財
金桜神社大々神楽付面と衣裳
古くから山岳信仰の拠点として栄えた金桜神社に伝承されているこの神楽は、室町時代以来の歴史を刻むという。本来は伊勢神楽に初源を持つと伝えられるが、現在まで伝承されている26座のうちには、修験道の所作が随所に認められ、金峰山麓に育った特異性を持つ芸能である。
舞に使用される28の面と47の衣裳とを含め、市の文化財に指定されている。
(看板資料より)

山梨県指定有形文化財(工芸品)
能面、住吉蒔絵手箱、家紋散蒔絵手箱
筏散蒔絵鼓胴、武具散蒔絵鼓胴
能面は8面あり、このうち2面に「ヰセキ」1面に「出目重満」の銘がある。この井関家及び、出目家は、ともに世襲面打家として能面史上重要な家柄である。面の種類は朱銘のあるものに平太、小面、中将などがあり、素材は檜材で翁のみ桐材である。金桜神社における神事能の由緒は明らかではないが、甲斐国の総社でもあった大社であり祭日に神楽が演じられているので、この伝統から神楽と同時に神事能がかつては舞われていたものと推定される。
住吉蒔絵手箱は、住吉神社が島に浮かび松樹と太鼓橋が配されたデザインである。黒漆地に金の平蒔の文様効果が密に現われた豪華な品であり、武田信玄の母大井夫人の奉納されたものである。家紋散蒔絵手箱は、各種の家紋がデザインとして散らされている。両者とも室町時代末期の特徴をよく示している逸品である。
御岳金桜神社の宝物として神宝帳に「ヰセキ作能面武田勝頼奉納、弥左衛尉作太鼓胴武田勝頼奉納、阿古作小鼓胴仁科五郎奉納」とある。武具散蒔絵鼓胴が勝頼奉納のもので胴内に「弥左衛門尉(花押)」と漆銘があり、筏散蒔絵鼓胴が仁科五郎奉納のもので胴内に「阿古」と朱銘があるが、奉納者の記載はない。黒漆地に金の平蒔と梨地絵を巧みに配分し文様効果をあげており、品位、作柄共に優秀な工芸品である。
(看板資料より)


神木「鬱金の櫻」
創祀二千年という古い歴史をもつ当神社が里宮として約千五百年前に此の御岳の里に祀られてより神仏習合時代に入り、役の行者小角の、以金為神、以桜為霊と云う託宣より「金の成る木の金櫻」として崇められたと云う景行天皇の御代日本尊命が植えられた桜をも謂う「うこん」とは上古の昔より皇のお召物の色とされ、この染料となる植物より此の名がつけられたものと考えられる。(大坂造幣廠地内に「御衣黄」と云われる桜が此の桜に酷似しているが恐らく此の由来に起因するものだろう)
現在のこの神木は6〜7代目とも云われ4月下旬から5月上旬黄金の大輪の花をつける。
此の季節この桜を拝み水晶の守りをうけると一生涯金運に恵まれ厄難解除のご神徳をもうけられるものと全国各地からの参拝者で賑わっております。
(看板資料より)

昇・降竜記
当金櫻神社には初代左甚五郎作と伝えられる昇・降竜が奉納されており、鎌倉時代の社殿と共に全国に其の名を知られてまいりました。
昭和30年の大火により全てこれを焼失して以来各方面からこれを惜しみ再現復活が要望されてまいりました。昭和55年ご神縁により東京銀座祝橋診療所吉河孝雄医博により日展会友堀友二氏に制作依頼され同58年8月27日奉納されました。ケヤキ一本作りの全長1メートル70センチの此の竜は夫々水晶の玉を抱いております。当神社の水晶のお守りは深い関係をもっており、
 鬼をさる王なれば天魔疫病の恐れなし
 如意宝珠なれば宝に於いてあきみてり
 国を守る王なれば息災にして天か下治む
 竜王の王なれば水火に於いて自在なり
 天地の鏡なれば萬の事曇りなし
 神符なれば不死不老悪衆不入病いなし
の玉依姫命の神託通り強い霊力をもつものと信仰されたものです。
昇仙峡のもつ神秘的な風景と日本三大霊場の此の御岳の里の古い歴史の中に数多い伝説の起源ともなった昇・降竜の由来は又此の新しい竜の再現によって高いご神徳を遍く蒙られるものと信ずるものでございます。
(看板資料より)

 

 
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