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山梨県笛吹市

慈眼寺

2014年07月12日

金剛山慈眼寺は真言宗智山派に属する寺院である。寺の創立は詳らかではないが、文明年間に宥日上人によって開創され、その後は武田家代々の祈願所として庇護を受けた。
天正10(1582)年武田家滅亡のおりには勝頼より遺品及び回向料を住職尊長が託され、高野山引導院へ送っている。その際織田氏の焼き討ちによって堂宇を焼失したが江戸時代前期に第12世宥真上人によって伽藍が再興され、その後、甲斐国真言七談林として隆盛を迎える。現在は本堂・鐘楼門・庫裏の3棟が、江戸時代前期における地方寺院の伽藍形態を現在に伝える貴重な遺構として国の重要文化財指定を受ける。平成21年11月から平成25年10月まで48ヶ月をかけて保存修理工事が行われ、往時の姿が蘇る。
(看板資料より)


本堂

本堂は元和8年〜慶安3年(1622〜1650)頃の建立と見られ、建物は桁行16.3m、梁間11.9mの入母屋造、茅葺で、室内は6室で構成された方丈型本堂で、仏壇中央に本尊千手観音像を安置する。板敷きの室中や仏間以外は畳敷きで、付書院や床の間など装飾性にも見るべきものが多くあり、江戸時代前期の建立ではあるが、中世の建築技法の名残りを今に伝える名建築となる。
今回の工事は半解体修理を行い、建物調査を基に文化庁と協議を行って、本堂を建立当初の江戸時代前期の姿復原した。工事前との主な変更点は、@東正面小壁及び建具を撤去し、柱間を吹放ちにして雨戸を建て込んだ。A正面落縁及び背面縁を槫縁に復した。B渡廊下を複廊下形式にした。C内法長押下の漆喰塗を板壁の全面和紙貼りに変更した。D屋根鉄板葺を茅葺に復した。
(看板資料より)


鐘楼門

鐘楼門は梵鐘銘から慶安3(1650)年の建立と判る。建物は一間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺で、小規模ながら各細部意匠が優れ、板扉上の平彩色も見事である。
今回の工事は半解体修理を行い、建物調査を基に文化庁と協議を行って、鐘楼門を建立当初の慶安3年の姿に復原した。工事前との変更点は、@屋根鉄板葺を檜皮葺に復した。A妻飾り及び箱棟の形式を整備した。B建物左右に袖塀三間分を復した。
(看板資料より)


庫裏

庫裏は元和8年〜寛文7年(1622〜1667)頃の建立となる。建物は桁行14.6m、梁間11.8mの正面入母屋造、背面切妻造茅葺で、背面下屋庇が檜皮葺となる。妻入の平面を持ち、土間部分に壮大な小屋組を見せており、全国的に見ても古い時代の庫裏建築として価値が高い。
庫裏は平成6年〜8年にかけて解体修理が行われ、屋根鉄板葺を茅葺にするなど往時の姿に復原された。その為今回の修理は屋根葺替工事を中心に実施した。
(看板資料より)

 



2004年08月14日

 

金剛山 慈眼寺
本寺は真言宗智山派に属し、その創立は明らかではないが甲斐国中屈指の古刹と云える。中世においては武運長久の祈祷所として武田信玄の庇護を受け、伽藍も整えられたが、天正10(1582)年、織田信長の兵火にあって全てが焼失したという。現存する本堂、鐘楼門、庫裏は第12世宥真の再興と伝えるもので、構造手法等からみてもいずれも江戸時代前期の建物として差し支えなく、この所伝は正しいと思われる。伽藍は東面し、正面に鐘楼門、その奥に本堂、本堂の北に庫裏を配する。これら三棟はそれぞれ江戸時代初期の遺構としてみるべきものがあり、さらに地方寺院の伽藍の形を現在に留める一例として貴重であるため、昭和61年1月22日付をもって、重要文化財建造物に指定された。
(看板資料より)


鐘楼門

鐘楼門は梵鐘に慶安3年の刻銘があり、この時の建立と考えられる。建物は1間一戸楼門で、屋根は入母屋造で、当初茅葺であったものを後に鉄板に葺きかえられた。妻は狐格子にかぶらで懸魚で飾る。石造礎盤に円柱で、1階柱上には出三ツ斗を組み、2階桁を受けるようにみえるが、四隅の通し柱となるので実際は大斗を柱から造り出し、肘木を差して納める珍しい手法である。二階は四周に擬宝珠高欄付切目録が回る。柱頭は木鼻付の頭貫と台輪で固める。軒は二軒疎垂木である。当初は主柱側面に袖塀が取り付いていたことが分かる痕跡がある。主柱の内側には板扉を藁座で吊り込み、その上に(牡丹、琵琶)(菊、蓮)の彫刻の施された蟇股を中備として置く。小規模で簡素な門であるが、全体の比例は良く頭貫木鼻の繰形も優れ、みるべきものがある。江戸時代初期の鐘楼門として貴重である。
(看板資料より)


庫裏

東向きで正面入母屋造、茅葺である。妻飾は虹梁中央に大瓶束を立て、虹梁の組物と大瓶束上の組物を海老虹梁で繋ぎ、かぶら懸魚をつける。入口は左寄りに設け、?に反りのある鳥居形とする。
内部の部屋割は梁間六間を棟通りで左右に分け、南半を表向き、北半を内向きの部屋とし、東寄り2間を土間、板間とする。これより奥は棟通りの南、北ともに4室を配し、南側には鞘の間を設け、奥の6畳には床と書院を構えている。構造は部屋割にしたがって柱を立て、柱間1間間隔のところが多い。梁は細く、小屋貫は背が低く古式である。
(看板資料より)


本堂

本堂は、鐘楼門よりやや古いとみられるが、建立年代を示す史料はない。建物は東面する方丈型本堂で前後各3室の6室で構成され、正面と北側面に1間幅の広縁を回し、前面に落縁を設ける。軒は一軒疎垂木、屋根は入母屋造で茅葺きであったものを現在のような鉄板葺に改められた。妻は狐格子三花懸魚で飾る。
内部は中央奥に間口3間半、奥行2間の板敷の仏間をとり、その前室を21畳大の板敷の間とする。仏間は他の室より一段高くし、奥に間口いっぱいの仏壇を半間張出して設け、中央に本尊千手観音像を納めた厨子を安置する。仏間南脇は床、棚、書院を備えた8畳敷の屋敷でその前室は12畳敷とする。仏間北脇は隅に1畳大の床を設け前室は15畳敷とする。天井は全室猿頬天井で、広縁は化粧屋根裏とする。
この本堂は改造が少なく、当初の姿を留め質実な地方寺院本堂の江戸時代初期の一例として貴重である。
(看板資料より)

 

 
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