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静岡県静岡市

一条寺

2008年03月22日

朝比奈信置公の墓

清水区の一条寺に朝比奈信置公の墓があるとのことで今回立ち寄りました。最初は自分でお墓を探しましたが見つけることができなかったのでお寺の方に聞いて場所を確認しました。駐車場の横に大きな墓地があり、駐車場から見て向って左側に舗装された登り坂があるのでそれを登っていくと途中で「朝比奈信置公の墓」と書かれた案内を見つけることができると思います。墓石は正面がほとんどはげてしまっていましたが、信置と書かれた文字の部分は確認することができました。また左側手前には書き写したと思われるものもありました。小高い所にあるのでここから一条寺を見渡すことができました。

由緒縁起
当山は往時この地の領主、庵原氏の創建になる禅林寺という寺があって隆盛を極めていたが、壇越庵原氏の衰頽と共に寺院も寂れ、廃寺同様となっていた。それを同じ庵原氏の出身である高僧、太原崇孚和尚が天文年中に中興して一乗寺(臨済宗)と改めたと伝えられる。永禄初年この寺に哉翁という僧が寄食した。俗名を朝比奈摂津守俊元といって、国主今川氏の宿将でもあった。朝比奈家は代々今川重臣の家柄で、太原崇孚(雪斎と号して今川の軍師)とも面識があった関係から庵原へ来たものと思われる。永禄3年9月、寺を今の地(庵原氏別邸)に移転して哉翁が曹洞宗に改め、開山第一世となった。開基は哉翁和尚の甥に当たる朝比奈丹波守元長の嫡男、駿河守信置公である。
(パンフレット資料より)

開山:哉翁宗咄大和尚
今川義元の諱の一字を賜い、俗名を朝比奈俊元、従五位摂津守を称す。丹波守俊永の弟で、永正17年生まれ、静岡市慈悲尾の増善寺三世の法弟である。永禄2年8月甥の朝比奈元長の勧請によって沓谷に元長寺を創建す。この折、僧籍で従五位下摂津守は不用と考え、都に上って正親町天皇に返爵を申し出るも許されず、かえって紫衣と天龍円鑑の禅師号を勅賜された。同3年一条寺、翌4年9月林叟院4世持転性受和尚の詔請で入院、住山7年にして大屋受賢和尚に譲る。が、永禄13年再住した為、前後21年林叟院で暮した。天正12年2月退院し天地庵に隠居するも、河村八郎右衛門のたっての願いにより、同15年金谷の洞善院を開創する。天正17年11月26日示寂、世寿69歳であったといわれる。
(パンフレット資料より)

開基:朝比奈信置公
享禄元年丹波守元長の子として駿府に生れる。母は今川義元の女、初名藤三郎義元の諱を賜り元置と名乗り、右兵衛大夫従五位下周防守、のち駿河守を称す。今川の重臣であったが、永禄12年武田氏に仕え、信玄の一字を得て信置と改める。志田、庵原、富士の三郡及び遠州、甲州のうち数ヶ所を領有する。駿河先方衆として百五十騎の将で、山県昌景に属す。妻は浜松城主飯尾豊前守乗連の女(連竜の妹)、天正年中持舟(用宗)城主となる。国主今川家にとって「一に朝比奈、二に庵原、三に三浦の…」と称されて、朝比奈氏は岡部町から起って代々重臣であった。永禄3年義元が桶狭間で戦死してその子氏真が当主となるが、年月を追って彼の政策に対する家臣団の反目が高まり、武田氏がこれを上手に利用して瀬名、葛山、三浦氏らと共に信置もまた甲州軍に投じた。信玄没後は勝頼に仕え、天正10年2月持舟城で徳川軍と戦う。が、29日降伏して開城、久能城へ退く。その後久能も落ちたため、庵原の館に引き籠っていたが、妻子を残して勝頼救援に出向く途中、身延あたりでその滅亡を聞き、再度庵原へ戻る。しかし織田信長の軍に降伏しなかったために館を攻められ、嫡男信良(信重とも)と共に自刃する。享年54歳、法名を一条院殿天嶺顕雪大居士と云う。信良は享年不祥、一翁祖心居士と伝えられ、その他の者達はこの折それぞれ身を隠し、のち旗本として徳川幕府に仕え、子孫今に続いている。
(パンフレット資料より)


輪蔵

寛文11(1671)年の黄檗版一切経(7530巻)を収めた六角輪廻の経蔵で文化10(1813)年に岡部町萬松院より移築された。
黄檗版(一切経)鉄眼版は若干の欠巻があるが殆ど保存されており、また経蔵は当地方にしては珍しい経蔵である。
(看板資料より)

 

 
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