竜雲寺 |
2014年12月21日 |
竜雲寺は守護大名今川7代の当主氏親の夫人龍雲寺殿峰林寿桂大禅定尼(寿桂尼)の菩提寺である。寿桂尼は京都の中御門権大納言宣胤の女で、永正5(1508)年今川氏親に嫁して、3男4女を生んだ。氏親は晩年、中風気味で自ら国政をとることが困難であったため、夫人の内助によるところが多かったと言われている。大永6(1526)年氏親が56歳で亡くなると夫人は髪を切り、翠光院寿桂(後に長膳院)と称し、氏輝、義元、氏真3代約40年の永きにわたり政務を補佐し、守護大名今川氏の繁栄をもたらした。ことに永禄3(1560)年5月、尾張国桶狭間における義元公の戦死は今川方にとって決定的打撃となったが、その間に処して沈着よく事をはこび兵をおさめて論功を行い、今川家の回復をはかり、外敵の進入を受けることなく国内の平静を保ったのは、尼の力に負うところが大きかった。永禄11(1568)年駿府の館で没したが、遺命により、駿府の鬼門にあたる当寺に骨を埋め、永く今川館を護ろう念願したと伝えられている。 |
寿桂尼墓所
戦国大名今川氏の当主を最盛期から滅亡まで4代に渡って支えた女性です。戦国時代を通じて、統治者の立場から家臣や寺社に対して公的文書を発行していた唯一の女性であることから、その政治的実力がうかがわれ、後世の歴史家から「女戦国大名」と評されるようになりました。
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2007年11月04日 |
竜雲寺は守護大名今川7代の当主氏親の夫人龍雲寺殿峰林寿桂大禅定尼(寿桂尼)の菩提寺である。寿桂尼は京都の中御門権大納言宣胤の女で、永正5(1508)年今川氏親に嫁して、3男4女を生んだ。氏親は晩年、中風気味で自ら国政をとることが困難であったため、夫人の内助によるところが多かったと言われている。大永6(1526)年氏親が56歳で亡くなると夫人は髪を切り、翠光院寿桂(後に長膳院)と称し、氏輝、義元、氏真3代約40年の永きにわたり政務を補佐し、守護大名今川氏の繁栄をもたらした。ことに永禄3(1560)年5月、尾張国桶狭間における義元公の戦死は今川方にとって決定的打撃となったが、その間に処して沈着よく事をはこび兵をおさめて論功を行い、今川家の回復をはかり、外敵の進入を受けることなく国内の平静を保ったのは、尼の力に負うところが大きかった。永禄11(1568)年駿府の館で没したが、遺命により、駿府の鬼門にあたる当寺に骨を埋め、永く今川館を護ろう念願したと伝えられている。 |
愛宕山城跡である愛宕神社を探している時に間違えて入ってしまったお寺でUターンをしようとしたら看板に寿桂尼の字が見えたので急遽車を降りて説明板の文章を読んでみました。するとこの竜雲寺は寿桂尼の菩提寺だそうで、本堂裏にはお墓もあるとのことでした。裏のほうに行ってみると、今川寿桂尼公墓所と書かれた案内板が指し示す矢印の方向へ歩いていけばたどり着くことができます。裏の墓域を通り過ぎて少し行った静かなところにありました。2基の五輪の塔は大きくて立派なものでした。またその右側奥にも石碑がいくつかありましたが、寿桂尼公の墓がどれなのかは分かっていないとのことでした。 |
寿桂尼公今川家へ嫁スルニ当リ父八代権大納言中御門宣胤卿ヨリ賜ワリシ印形今川家決裁ニコレヲ用ウ依ッテココニ永代ニ記念スルモノナリ
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