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神奈川県相模原市

法印の首塚


2014年01月04日

戦国争乱の世、上洛し、天下に覇をなさんとの野望に燃える甲斐の武田信玄は、諸将に大軍を引きつれ小田原に北条氏を攻めた後、相模川沿いに北上し、三増峠(愛川町と津久井町との境)を突破せんとする時、北条方もこれに大軍を備えて迎え撃ち、激しい戦闘が展開された。時は永禄12年10月8日、世に言う「三増合戦」である。山岳戦になれた武田軍は、堅固なる北条方の陣営を突破して山王の瀬を渡り、甲府に無事帰還したのである。
この日小田原北条氏の配下にあった日向薬師の山伏の一団は、甲州軍の一支隊の退路を遮断せんとして、ここ駒入原にて戦闘を交えたが、奮戦も空しく日向薬師八大坊の、前大先達権大僧都勝快法印を始めとしてこの地において討死をしたのである。村の人達は、討死した人達の霊を弔うべく若宮八幡宮として祭ったと伝えられている。八幡社は以前は離れた山の上にあったが、明治年間に諏訪神社の境内に安置されたといわれている。
(看板資料より)

三増合戦に勝利をおさめ甲州へ帰還しようとする武田勢の一支隊の退路を絶たんと、北条配下にあった日向薬師の山伏たちが壮絶な戦いを挑みましたが、奮戦むなしくこの地において討ち死にしました。
(看板資料より)

 



2003年05月28日

戦国争乱の世、上洛し、天下に覇をなさんとの野望に燃える甲斐の武田信玄は、諸将に大軍を引きつれ小田原に北条氏を攻めた後、相模川沿いに北上し、三増峠(愛川町と津久井町との境)を突破せんとする時、北条方もこれに大軍を備えて迎え撃ち、激しい戦闘が展開された。時は永禄12年10月8日、世に言う「三増合戦」である。山岳戦になれた武田軍は、堅固なる北条方の陣営を突破して山王の瀬を渡り、甲府に無事帰還したのである。
この日小田原北条氏の配下にあった日向薬師の山伏の一団は、甲州軍の一支隊の退路を遮断せんとして、ここ駒入原にて戦闘を交えたが、奮戦も空しく日向薬師八大坊の、前大先達権大僧都勝快法印を始めとしてこの地において討死をしたのである。村の人達は、討死した人達の霊を弔うべく若宮八幡宮として祭ったと伝えられている。八幡社は以前は離れた山の上にあったが、明治年間に諏訪神社の境内に安置されたといわれている。
(看板資料より)

三増合戦に勝利をおさめ甲州へ帰還しようとする武田勢の一支隊の退路を絶たんと、北条配下にあった日向薬師の山伏たちが壮絶な戦いを挑みましたが、奮戦むなしくこの地において討ち死にしました。
(看板資料より)

諏訪神社

青根の諏訪神社の大スギ:かながわの名木100選
県内でも有数の大スギで、先端部は枯死しているが、勢力の衰えは見られず、幹はまっすぐに高く伸び、堂々としており迫力がある。県の天然記念物に指定されている。
(看板資料より)

法印の首塚は、青根の郵便局で場所を聞いてやっと見つけることができました。国道413号線から犬越路へ行く路は国道から入って諏訪神社の先から工事で通行止めになっていましたが、諏訪神社を越えて更に消防署を超えて突き当たったところを左に行ったところにあります。青根は山梨県との境にあり、三増からはかなり離れていますがこんなところにまで合戦に関する言い伝えが残っていたのにはびっくりしました。
ちなみに諏訪神社の大スギは県の天然記念物だそうですが確かに大きな木で一見の価値ありです。

青根郷と武田信虎
天文4(1535)年、武田信虎と今川氏輝の間が不和となり6月5日信虎は富士川沿いに兵を駿河に進めた。今川氏輝もまた27日に出陣し、両軍が相対峙して持久の形勢になった。今川氏輝は姻戚関係にあった北条氏に請い、北条氏綱、氏康父子は2万4千(または1万ともいわれている)を率いて籠坂峠を越えて山中に攻め入った。これに対して武田軍は郡内の小山田越中守信有、及び武田信虎の弟である勝沼信友率いる2千でよく戦ったが多勢に無勢、勝沼信友は戦死した。
その後武田と同盟関係にあった川越城の上杉朝興は北条氏綱が甲斐に出陣した隙に乗じて小田原城を襲ったため北条氏綱父子も小田原に帰った。武田側は上杉朝興の後方攪乱戦法で危機を脱したが、妙法寺記によれば翌天文5(1536)年に武田勢はこの青根郷を襲って老人、婦女子百人余りを討ち取ってうっぷんを晴らしたという。この年信玄は元服して晴信と名のり始めた。
(新人物往来社 定本武田信玄より)

 

 
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