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静岡県浜松市

平手神社

2015年02月07日

織田信長の重臣の一人であった平手汎秀(監物)の墓碑が稲葉山にある。ここが平手監物汎秀の終焉地といわれ彼を祀る祠がある。
彼の父は織田信秀の老臣平手政秀である。若き信長の補佐役となり、主人の放埓を死をもって諫言した忠臣である。汎秀もまた父の血を承け義臣であった。折しも元亀3(1572)年12月、甲斐の武田信玄は大軍を率いて西上し、浜松城の徳川家康と三方原に合まみえた。家康は早刻同盟国尾張の信長に急を告げて援軍を求めた。信長は盟約によって、平手監物を総大将として三千の兵を授けて出発させた。これに従う大将には佐久間信盛、水野信元らがいた。しかしこの戦で無惨な敗北を喫した家康は残兵をまとめて浜松城内に引き上げた。勢いに乗った武田勢は織田軍へのへの追撃は極めて烈しかった。不運にも平手監物は浜松の地の利に暗かったため、奮戦の後も浜松城に入ることができず、伊場の稲葉山まで逃れ走ったが、遂にここでわずかな家臣と共に討死したのである。平手監物汎秀の墓のある界隈は今では周辺部がすっかり住宅地化され、昔のおもかげを偲ぶことは出来ないが、雄踏街道から鳥居坂を登った丘陵の上にある墓碑は、小さなお堂の中に安置されており正面に六曜星の紋が彫られ「嗚呼義士 平手監物時秀之墓」と刻まれている。碑銘には時秀とあるがこれは汎秀の兄に時秀という人物がいることから、建碑者が兄の名を間違えて刻んでしまったものだろう。墓所の入口に建てられている「平手監物墳墓之地」を刻まれた碑は浜松市が皇太子御成婚を記念して大正14年3月28日に建立されたもので高さ台石とも1.5mほどの自然石の碑である。
(浜松の史跡より)

平手監物墳墓之地

 



2005年02月11日

神社の入口のところに碑があった。長方形の碑には「平手監物時秀公霊場稲葉山」と書かれており、右側の方には「平手監物墳墓之地」と書かれていました。


更に奥に進むと鳥居があって平手神社と書かれていました。その奥には祠のようなものがあって平手汎秀のものと思われる墓が中央にあって、その隣には平手監物公家臣の墓もありました。


監物坂

平手神社はグランドホテル浜松の裏側にありました。車を止めたところにちょうど監物坂と書かれた木の案内がありました。付近を歩いていた地元の婦人に平手神社の場所を聞いたところ監物坂を登りきった先の左側にあると教えてくれました。「平手さま」と書かれているとのことで、地元の人たちにも知られているようでした。
平手神社の位置は、浜松城の真南にあたります。三方原の合戦のときに、織田信長からの援軍として佐久間信盛とともに合戦に参加していた平手汎秀が戦死したところが平手神社といわれているそうですが、その場所は三方原から遠く南に離れたところでしかも浜松城より更に南であり、こんな場所まで武田軍の追撃があったことが分かりました。

 

 
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