平瀬城 |
2014年11月16日 |
平瀬城について |
平瀬下野守の詰めた山城で現在東西50間、南北15間の城址や堀割帯曲輪等の遺構が残存する。小笠原長時の重臣で天文20年10月24日武田晴信に徹底抗戦し落城。城将以下204名討死せし処 |
平瀬城から見えた北アルプス常念岳
平瀬城登山口
2005年12月04日 |
平瀬下野守の詰めた山城で現在東西50間、南北15間の城址や堀割帯曲輪等の遺構が残存する。小笠原長時の重臣で天文20年10月24日武田晴信に徹底抗戦し落城。城将以下204名討死せし処 本丸と思われるとことは比較的広く一番奥には祠があって、物凄く立派な松の木があって私が到着したときには小雪が混じった横殴りの強風で少し不気味に感じました。 |
平瀬城登山口
洞光寺ですっかり体が冷え切ってしまい、急いで次の目的地である平瀬城に向いました。ここは以前来たことがあり、場所は分かっていました。とにかく体を温めるために黙々と休むことなく一気に登り切ったので15分かからずに頂上にたどり着いてしまいました。 |
前回来たときに断念したところから更に進んでいけば比較的容易に行くことができました。途中ポイントが2ヶ所ありますがどちらにも立て看板があって方向を示しているので道に迷うことはないと思います。 |
2003年07月05日 |
平瀬城について |
本城(左)と支城(右)
小笠原長時は天文19(1550)年、武田晴信に攻められて本城である林城を捨ててこの平瀬城に撤退し、更に葛尾城の村上義清を頼っていくことになります。しかしその2ヵ月後に武田晴信は小県郡戸石城を攻めますが、いわゆる戸石崩れで後退すると、その機会に再び小笠原長時は村上義清の援助を得て平瀬城を奪還し、更に深志城(現在の松本城)をねらいます。しかし村上義清は一転兵を佐久に向けたため小笠原長時の野望は頓挫してしまいます。翌天文20(1551)年5月、真田幸隆によって戸石城の攻略に成功して優位に立った晴信は、10月に深志城から攻め出して平瀬城を再び奪還します。その後平瀬城には原美濃守虎胤に守らせました。平瀬城攻略の3日後、小岩嶽城を攻めたがこのときには落とすことができずに撤退している。 平瀬城は場所が非常に分かりにくいです。私は北から行ったので特に分かりずらかったのですが国道19号線を豊科町から松本市に入ってすぐのところに篠ノ井線の線路の下をくぐる道があるのでそこを通過してその先は右からでも左からでも行くことができます。案内の看板があるところに車を止めて近所のおばあちゃんに場所を聞いてみましたが今の時期はとてもじゃないが行かれない!とのことでした。それでも少し行ってみたのですがはやりおばあちゃんの言った通り、橋を渡ったところまで行った所で雑草のため断念。その後近所の別のおばちゃんに聞いたところ、上に行っても何もないし、11月3日にはお祭りがあってそのころには雑草も枯れてお城の全容が見えるのでその頃に是非来なさいと言われました。ちゃんと覚えておかないと。。。
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