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神奈川県中井町

馬場跡・日枝神社・花籠の台


2003年11月23日

馬場跡
その昔は鉄砲馬場であったが、戦前は廻り馬場となり、当時は草競馬が年に数回行われ賑やかだったといわれている。また、この付近には「五十塚」と「六十塚」という地名があり永禄9(1566)年小田原攻めを行った武田信玄の一行がここを通る際、北条の追撃に遭い、そのとき亡くなった者の霊を慰めるために五輪塔を立てたと伝えられている。また、北条早雲と三浦一族との古戦場ともいわれている。以前は数多くの五輪塔があったが今はその姿はない。
(看板資料より)

場所は秦野中井インターチェンジからすぐ近くのところです。現地の畑で農作業をしていた老夫婦の話しによれば、上の写真で向かって右側が中井町で六十塚といい、左側が平塚市で五十塚というのだそうです。案内板に記載の通り武田軍が小田原に向かう途中ここで北条軍に襲われ戦いがおきたようです。(案内板には永禄9年とありますが多分永禄12年の間違いでしょう)
その後、地元の信心深い人の夢枕に戦死した武将が現われて弔って欲しいと訴えたので六十塚が建てられたとのことでした。付近には「花籠の台」というところもありました。お話していただいた奥さんは輿入れの際に通ってしまったそうですが。。。

六十塚


日枝神社

創立由来等は、はっきりしていない。祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)で、江戸時代山王大権現と称されていた。明治2(1869)年、日枝神社を改称され、4月3日が祭日で草競馬や芝居が盛大に行われ賑わった。
(看板資料より)


花籠の台

江戸時代の末期、中村の女子と土沢惣領の男子との婚約が相整い、挙式の当日、花嫁は花籠に乗り媒酌人や親類に付き添われ、行列を整えてこの地にさしかかった。その時、一人の若者が現われ、花籠の外から簾越しに花嫁を刀で刺して逃げ去ったという。以来、この地を花籠の台を名付け、婚礼行列の通行禁止の場所となった。
また、あるとき強情者がこの習わしを軽視してここを通ったところ、整いかけていた縁談も間もなく破談となったという伝説があるため、今でもめでたい時には遠まわりをし、決してここを通らないようにしている。
(看板資料より)

 

 
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