早落城 |
2014年05月25日 |
早落城 一の空掘
上巾約13m、本廓まで高さ約4m、西側の縦堀は長さ約30m。南方からの敵を防ぐ空掘である。 |
早落城 主郭(本郭)
早落城主郭(本郭)
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赤沢氏の出丸であった。部下の林小太郎に守らせた。天文22(1553)年に武田晴信の大軍が赤沢貞庸を攻撃し、押し寄せて戦ったが、簡単に敗れて落城した。そこで早落の名を負ったという。 洞に早落という山砦跡がある。この砦について次のような落城の話がある。むかし稲倉の城主の赤沢左衛門尉経康という武将がいて、今の三才山・稲倉・洞・原・水汲・浅間の6つの村を領地としていたが、その頃、里山辺の林城には小笠原長時という大変威張った大将がいた。赤沢経康はこの大将の家来であったが、長時は大変気ままで、ある時赤沢経康の持っていた洞山砦を、勝手に岡田の井深城主後庁大内蔵重常という武将にくれてしまった。赤沢は悔しがったがじっと我慢していた。その頃、甲斐国の武田信玄が攻め入り、小笠原長時を攻め破った。この時ばかりと赤沢経康は立ち上がり、軍勢を二手に分け一手は井深城を攻め落とし、もう一手は洞山砦を攻めて簡単に落としてしまった。それから後は、誰いうとなく洞山砦を早落し砦と呼ぶようになった。 |
空掘跡
早落城 二の廓
長さ約23m、巾約5m、北側の空掘上巾約12m、高さ約4m、南側の空掘上巾約9m、高さ約3m。南北両方から来る敵を防ぐ空掘である。 |
空掘跡
空掘跡
2007年03月11日 |
早落城一の空掘
上巾約13m、本廓まで高さ約4m、西側の縦堀は長さ約30m。南方からの敵を防ぐ空掘である。 |
早落城二の廓
長さ約23m、巾約5m、北側の空掘上巾約12m、高さ約4m、南側の空掘上巾約9m、高さ約3m。南北両方から来る敵を防ぐ空掘である。 |
付近まで行ったところで工事の作業員に場所を聞いてみたところ、早落城跡への道は崩れてしまったので別のルートを教えてもらいました。どうやら裏側からまわるルートのようでした。しかし周辺を何度も行き来しましたがどうしてもたどり着くことができずあきらめかけました。もう一度だけ最初から行ってみることにしてトライしてなんとかたどり着けました。実は城跡の周囲を行ったり来たりしていたようです。「わんぱく夢牧場」と書かれた看板があるところに車を止めてそこから歩きました。300m先本廓と書かれた看板もありました。 |
赤沢氏の出丸であった。部下の林小太郎に守らせた。天文22(1553)年に武田晴信の大軍が赤沢貞庸を攻撃し、押し寄せて戦ったが、簡単に敗れて落城した。そこで早落の名を負ったという。 洞に早落という山砦跡がある。この砦について次のような落城の話がある。むかし稲倉の城主の赤沢左衛門尉経康という武将がいて、今の三才山・稲倉・洞・原・水汲・浅間の6つの村を領地としていたが、その頃、里山辺の林城には小笠原長時という大変威張った大将がいた。赤沢経康はこの大将の家来であったが、長時は大変気ままで、ある時赤沢経康の持っていた洞山砦を、勝手に岡田の井深城主後庁大内蔵重常という武将にくれてしまった。赤沢は悔しがったがじっと我慢していた。その頃、甲斐国の武田信玄が攻め入り、小笠原長時を攻め破った。この時ばかりと赤沢経康は立ち上がり、軍勢を二手に分け一手は井深城を攻め落とし、もう一手は洞山砦を攻めて簡単に落としてしまった。それから後は、誰いうとなく洞山砦を早落し砦と呼ぶようになった。 |
狐屋敷居館跡
狐とは隠れて見張りをしている武士を言う。早落城主の家臣のいた屋敷であろう、城主が使用した御竹薮が周辺にあた北側上段の畑地を「竹の上」と呼ぶ御竹藪か居館の上の意味である。
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