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長野県小県郡長和町

長窪

2015年05月03日

本郭

長窪城は、佐久郡芦田郷(現北佐久郡立科町芦田)一帯を所領としていた芦田氏が、室町時代中頃の正長元(1428)年頃に出城として築城したといわれています。
その後、佐久地域を本拠地とした大井氏が長窪城主となり、根小屋集落(城下町)である「北小屋」(現北古屋)が整備され、次第に対岸の町並みも拡張していったようです。
戦国時代の天文12(1543)年、前年に諏訪地域を手中に収めた武田晴信(信玄)は、交通の要衝に位置する長窪城を攻め、城主大井貞隆を捕らえます。
以降、長窪城は武田氏の東・北信濃侵攻の前線基地として利用されました。
天正10(1582)年、武田氏が滅亡し、真田昌幸が小県郡を統一すると廃城となったようです。現在でも、山頂部の主郭、二の郭や、馬屋、堀切等の遺構が良好に残されています。
(看板資料より)

馬場跡

南側の険しい登り坂

南の郭

長窪城は深山城・霞尾城ともいわれ、古道大内道(鎌倉時代以降、信濃守護小笠原氏が松本から武石峠を越え、有坂・長窪を経て佐久に通じる軍道として使用したことから小笠原道ともいう)に連丘する山脈が依田川に突き出した頂部に築かれ、東側丘陵沿いには古道笠取峠に至る間道が開かれ、西山麓には諏訪街道が走るなど要衝の地にあり、その構えから佐久方面の防御と依田窪南部地帯の守城として構築されたものと思われる。構築者については応永年間(1394-1428)、佐久防御の前線基地として望月氏または大井氏が考えられるが、詳らかではない。天文9(1540)年『神使御頭之日記』に「此年七月、当方(諏訪頼重)ヨリ長窪之城知行」とあるが、同城がクローズアップされるのは天文年間、甲斐の武田晴信(信玄)とのかかわりにおいてである。『高白斎記』に「(天文12年)9月9日光台為御退治千塚迄御出陣。10日若神子ニ御着。12日海野口、15日宮ノ上、16日前山、17日御着陣。申刻長窪ノ城被為攻。19日光台生捕。20日望月一族被為生害。同20日光台為警固云々」とあり、また「小笠原系図」に「大井貞隆、法名高台、信州佐久岩村田城主」とあることから、光台は大井貞隆と考えられ、当時岩村田城と共に同城を治めていたと思われるが、この落城を機に同城は晴信の対村上氏の重要拠点となり、同氏との抗争の居城とされた。
つまり、天文17(1548)年に晴信は村上義清と上田原に戦うが、「2月大巳刻、向坂木へ、雪深クツモリ候間、大門峠ヨリ御出馬云々」と同城に拠ったことは明白であり、また同19年8月、義清を戸石城に攻めた際、「戌亥ノ刻、長窪へ御着陣、24日砥石ノ城見積リニ云々」とある。更に同22年、和田城(小県)・塩田城を共に攻略するが、この時も「(天文22年)8月長窪ヘ被居御陣云々」とあるなど、塩田城を手中にするまでの村上攻略、北信濃進攻の前線基地として晴信に重んじられたことは明瞭である。
(日本城郭大系より)

堀切

佐久方面の防備と依田窪南部地帯を守るために築かれたと思われる同城には、佐久側と大手にあたる赤頭沢側からの2つの登城道が考えられるが、搦手にあたるなだらかな佐久側の尾根道には、深さ2m程の堀切が、登り口側に3条、本郭側には2条の他、4m×13mの削平地などがみられるが、他に遺構らしいものは現認できず、本郭北に接する当城最大の郭に至る。本郭は方13mの円形で、南面に石積み跡を残し、幅2m、深さ2mの堀切をめぐらしている。以下、急峻の尾根道には5段ほどの削平地が階段状に設けられ、最下段の「うまや」と呼称される三日月状の削平地に連なる。なお、同城の南・西両斜面には削平地が四ヶ所ほどみられるが、北斜面にも同様の削平地らしきものが認められる。
赤頭沢の深い谷が自然の堀をなし、三方の急斜面に多くの削平地を擁した同城は、いわば自然と人工を巧みに配した要害といえる。同城の地籍が小字北古屋と称されることでも分かるように、同城の西北山麓には依田川と同城に挟まれた北古屋集落があり、同城の整備につれて発展した集落といわれるが、その北側一帯は垣戸と呼ばれ、また周辺に「円通寺」「塔の坂」「薬師淵」などの地名が残る。
(日本城郭大系より)

堀切

二の郭



2003年06月29日

長窪城跡について
この城跡は、別に深山城、または霞の尾城ともいい、室町時代中期の応永年間(1400)大井氏、または芦田氏(依田氏)によって築かれたといわれている。その後、佐久岩村田大井庄、大井氏の親類衆が永くこの地を支配し長窪氏を名乗り長窪の発展に尽くした。
天文12(1544)年9月、城主であった大井貞隆は武田晴信(信玄)の軍に攻められこれに降り、以降長窪城は武田氏が北信濃に進出するための重要な拠点となった。
天正10(1582)年武田氏が滅亡するとともに小県一円は真田昌幸の領地となり天正11(1583)年、昌幸が上田城を築いて配下の武士を上田城下に集めたことなどにより長窪城は廃城となった。
当城と武田氏とのかかわりあいの主なものは次のとおりである。
天文12(1544)年9月
武田晴信(信玄)により当城主大井貞隆、捕らわれる。
当城はこの後信玄による東・北信濃攻めの前進基地となる。
天文17(1549)年9月
信玄、長窪城に着陣のあと、坂城葛尾城主村上義清を攻め、上田原合戦となる。
天文19(1550)年2月
信玄当城に着陣し、重臣を2回にわたり、村上方の守る戸石城の偵察に出す。このあと戸石合戦となる。
天文22(1553)年8月
信玄当城に着陣のあと、和田城、高鳥屋城、塩田城等を攻め落とす。
天正10(1582)年3月
武田氏滅亡する。
天正11(1583)年
真田昌幸、上田城を築く。このころ長窪城、廃城となる。
(看板資料より)


長窪城跡の場所はまったく分からなかったので長門町役場に寄って場所を聞きました。当日の日直の方に親切に教えてもらい場所を知ることができました。現地付近に到着してみると一番上の写真の通り城らしいものは見えるのですが入口を発見することができませんでした。資料によれば裏から行かれるとのことだったので国道254号線の方にまわってみたら上の写真のように小さな看板がありました。

信玄が佐久、小県を攻略する際に拠点となった長窪城は今回の重要目的地の一つでした。小説「武田信玄」でも、「信玄は大門峠を越えて長窪城に入った」というシーンは何度も出てきます。思ったより規模は大きくなく時期的にもまだまだ武田軍がそんなに大きな集団ではなかったということでしょうか?


長窪城跡案内図

掘切

裏の搦手から主郭までの間には北の郭郡といって5つの郭が細長く続いていてそれらは掘切で連続してつながっていました。全体的に細長い形であったようです。


主郭からの景色

主郭から急な坂を下って南の郭、馬屋、大手方面へと道は続いていましたが、足の痛さが限界となり、南の郭群のところまで行ったところで引き返してきました。


二の郭

幅13メートル長さ30メートルに及ぶ長窪城最大の郭である。郭に向かう尾根を幅2メートル深さ2メートルの竪掘が直上する。
(看板資料より)

 

 
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