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群馬県高崎市

長谷寺

2012年02月24日

白岩の長谷寺、通称「白岩観音」は、朱鳥年間(686-696)に開基されたことが「長谷寺縁起絵巻」に伝えられている。
本尊の十一面観音立像は、総高230cm、像高180cmで、かや材の一木割矧造で素木仕上げとなっている。様式から平安時代後期(藤原時代)の作とされる。また、同型の前立像は、総高270cm、像高186cmで、桧の寄木造、目には玉眼がはめ込まれ、全体に金箔が施されている。右手に錫杖、左手には宝瓶を持ち、鎌倉時代の作と推定されている。
鎌倉時代中期・天福年間(1233)に成立した坂東33ヶ所のうち、第15番の札所となった白岩観音へは中世以降、多くの巡礼者たちが訪れた。本尊の十一面観音像が秘仏であるため、一般に参拝するのは前立像であった。
精緻にして優美なつくりの二体の仏像は美術史的にも高く評価でき、特に平安時代の仏像は県内では極めて少なく貴重である。
(看板資料より)

箕輪落城の前に、軍記物の多くが白岩の激戦を記している。箕輪攻防戦にはこの方面からの武田軍の攻撃が重要な意味を持っていたからである。
箕輪城にとって、白岩方面は室田の鷹留城を結ぶ重要な防衛線である。箕輪・鷹留の両城は別城一郭の城であり、離れていてもお互いに支え合い、一城が包囲されると一方の城が後詰となる。箕輪攻撃を行うにはこの二城間を断ち切るか、同時攻撃をする必要があった。武田軍が両城を分断する作戦に出たのが、白岩付近の激戦となったのである。
高浜砦を失い、白岩で破れた箕輪方は以降、鷹留城との連絡が困難になったと思われる。白岩の戦いで坂東三十三番・第十五番札所の観音堂は焼失したが、仏像・経典は焼失を免れ、天正8(1580)年に世無道上人が遠近貴賎の勧進を集め、白岩六坊と共に堂を再建して旧に復した。
余談であるが、この観音堂が武田信玄の援助により再建されたため、浜川の長野氏一族は今でも参詣しないという。
(箕輪城と長野氏より)

 


長谷寺の方の話によると、武田信玄は以前から攻め込む旨触れを出していたため、仏像や経典は予め非難させておいたので難を免れたとのことでした。武田方により再建されたことは、観音堂の天上にその旨記載された部分があるとのことでした。

 

 
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