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山梨県笛吹市

板額塚

2014年07月12日

板額塚由来
境川村小黒坂小字柳原のこの地は古くより板額塚と口伝されてきたところである。両側の里道は板額坂と呼ばれている古道である。
この板額塚は浅利与一義成の妻板(坂)額の塚と言われている。板額女は鎌倉時代初期越後国鳥坂城主の城小太郎資盛の姨母である。城氏は桓武平氏の流れをくみ、武勇の名を天下にとどろかせた平維茂の子孫である。
時に資盛は鎌倉二代将軍頼家の代、建仁元(1201)年越後鳥坂城(新潟県中条町)に拠って幕府に反旗をひるがえした。幕府は佐々木盛綱を総大将に鳥坂城を攻めた。城将資盛の姨母板額はおんなの身でありながら弓を射て百発百中敵を倒したが、信濃の住人藤澤四郎清親の矢に倒れ生虜られた。
城氏は敗れ、板額は鎌倉において将軍の前に引き会わされた。有力御家人の居並ぶ中でおじけず堂々としていた。浅利与一は板額を女房にしたいと嘆願した。朝敵を望むとはと問われ、与一は「同心の契約をなして壮力の男子を生み朝廷を護り武家を扶けたい。」と答え許されて甲斐に連れ帰った。
板額は身籠り安産祈願に藤?瀬立不動に参る途次、帯石に立ち止まった故事が伝えられている。板額の産んだ女子が武田五郎信光の七男、石橋八郎信継(石橋屋形住人)のもとに嫁いだといわれる。この地の名称も板額の浅からぬ因縁によるものと思われる。
(看板資料より)

 
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