←前のページ トップページ↑ 次のページ→

長野県伊那市

八人塚

2006年12月30日

戦国時代の享禄元(1528)年信玄の父武田信虎が諏訪大社の神官諏訪頼満と境川で戦ったのが武田氏の信州侵入の最初であった。それ以降武田氏は信州侵入の挙に度々出たので、信州の諸豪族は武田氏に対し、城を堅固にするとともに新たな城を築くなどして侵入に備えた。一方信州の小笠原、木曽、諏訪の連合軍は甲州韮崎まで反撃に出て戦った。また天文9年には武田信虎は大挙して佐久に侵入し、1日に30余城を落とし小県に侵入する等武田氏の信州侵略の野望は飽くなきものがあったので、弘治2(1556)年、武田信玄が上杉謙信と対陣中に上伊那の諸豪族は武田氏に反抗するために、信玄の娘の嫁ぎ先の木曽氏を攻撃して帰った。これを聞いた信玄は大いに怒り、川中島で上杉軍との戦いを中途にして急遽伊那へ鉾を転じ、木曽氏を攻めた8人の諸将を捕え、狐島において処刑し晒首にして置いた。黒河内の住民の勇士は闇夜に乗じてひそかに狐島に赴き8人の首を持ち帰り、黒河内の艮(うしとら)城の東のこの地にに丁寧に葬った。郷人はこの8人の諸将があくまで武田氏の侵入に反抗し郷土を守ったその勇を称え、霊を慰めるとともに英名を後世に伝えるためにこの碑を建てた。以来毎年春秋2回黒河内区の主催による追善供養の法事を碑前において挙行し、往時をしのんでいる。
(看板資料より)

戦国時代、甲州の武田信玄が信濃に侵入したので信州の豪族は新しく城を築いてこれに備えた。わが郷土黒河内では艮城、溝口では上の城を築いた。その後強く抵抗した高遠城、福与城も信玄のために落とされ、南信濃はほぼ武田氏に従った。北信濃では、上杉謙信が川中島でたびたび信玄と対戦した。その合戦中に、黒河内政信、溝口正慶、松島信久、伊那部重親、殿島重国、宮田親房、小田切正則、上穂重清など8人の上伊那の城主は協力して、信玄の娘の嫁入先である木曽氏を攻撃して信玄に反抗した。このようにあくまで反抗して郷土を守った8人の勇傑はついに弘治2(1556)年信玄に捕らえられ、伊那市狐島で磔にされた。黒河内の人々はこの8人の首を艮城の東に葬った。これを八人塚といい、400余年後の今日までその英名は伝えられた。ここに長谷村は、八人塚碑を建てその英霊を追福し、後世に伝えんとして文を私に求む。私はその挙を喜び、郷土のためにその由来を略記した次第である。
元信州大学教授文学博士 勲三等 市川本太郎
(石碑裏に書かれた文章より)


八人塚は旧長谷村の黒河内にあります。黒河内は秋葉街道から南アルプス林道への入口のところで、国民宿舎仙流荘などもあって子供の頃よく連れてきてもらったことを覚えています。市野瀬で八人塚への行き方も聞いていたので大体の場所は分かっていたのですが独力でたどり着くことはできませんでした。途中見かけた軽トラのおじちゃんに場所を聞いて行き方を教えてもらいました。また同時に八人塚の由縁についても教えてもらい、伊那の狐島にも行ってみるように勧められ、今日のコースに入れることにしました。現地は道路から階段を降りた所にあり分かりづらいかもしれませんが道路から見えるところに「八人塚」の看板もあるので分かると思います。
上伊那の人々にとっては武田軍は侵略者であることを実感したのでした。


艮城
溝口城
蓮台場
春日城
殿島城

 

 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→