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山梨県甲府市

八幡神社

2013年09月01日

 
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この神社は、石和五郎信光が鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮を石和の館に勧請して、国衛八幡宮と称したのが始まりといわれています。永正16(1519)年に武田信虎が躑躅ヶ崎に館を築く際に、館の西側に移され府中八幡と称されました。この場所は現在の相川小学校の南西部にあたり、旧敷地の一部は同校の体育館敷地となっています。武田氏滅亡後、甲府築城の際に祈願所ならびに御城鎮守の氏神として現在地へ移され、甲斐惣社八幡宮と呼ばれ、江戸時代を通じて、特別な扱いがされていました。
(看板資料より)


本殿

夢見山伝説
むかし、武田信虎が現在の夢見山に登ったときの事、急に眠くなり石を枕に寝入ってしまいました。すると、夢に1人の男が現われ「今、甲斐国主として誕生した男児は、曽我五郎の生まれかわりである」と告げました。間もなく城から若君(後の信玄)誕生の知らせがあり、喜んだ信虎は勝千代と名づけました。ところが勝千代の右手は握ったまま開きません。心配した信虎が天桂和尚に相談すると和尚も同じ夢を見ていて、男は「その子の右手には金龍の目貫一片がある。城東の池で洗えば右手は開く」とつげ、もう一片の目貫を和尚に渡して消えました。信虎が言われたとおりにすると勝千代の右手は開き、中から目貫が出てきて和尚のものと符合しました。このことからこの山は夢山、または夢見山と名づけられたということです。
(看板資料より)


営繕之碑

「営繕之碑」の説明
当社は承久年間、武田信光が鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮を、信光の館「石和」の地に勧請誘致して甲斐の国八幡宮と称した。その後代々武田家の氏神として崇敬して武田信虎が古府中に館を移すと一緒に神社も遷座した。
文禄年間、武田家滅亡後豊臣秀吉の家臣浅野長政が今の甲府城築城に際して古府中相川から「現在の地」に奉遷して城の鎮守甲斐国総社とした。その後徳川家康が甲斐の国の領主になって石高26石社地1万9千坪を寄進して、改めて城の鎮守国の祈願所として、領内160社の神職に命じて国家の安全を祈ることを恒例とした。
徳川幕府が終わり、明治維新になると禄高が国に返還されることになって神社の収入は激減して、その維持経営が段々苦しくなり、明治年間後半には社殿の荒廃は見るに耐えない状態となった。大正9年此の状況を見た有志が相談、八幡神社奉営会を組織して多くの協賛者によって、参萬円という巨額の寄付金(今の価格で約三億円)を得て、以前より立派な本殿・拝殿・随身門・鳥居・神楽殿の再建工事が完成した。之は神徳の御蔭であるが協賛者有志の崇敬心と努力の結果であり、茲に皆様方の芳名を記録してその功労を記念するものである。
大正15年6月 県社八幡神社奉営会 名取忠愛 敬書

今年はこの「営繕之碑」建設より丁度80周年になります。残念ながら当時の荘厳な社殿は、昭和20年7月米軍の甲府大空襲によって全て焼失し現在の社殿は戦後再建したものです。
此の度「営繕之碑」周辺の整備を行い、かつて神社再建に多大な貢献とご努力された奉営会諸先輩の方々に、深甚な敬意と感謝の念を込めてこの「営繕之碑」説明板を設置した次第です。
平成18年6月 八幡神社 総代会
(看板資料より)

 



2004年08月14日

この神社は、石和五郎信光が鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮を石和の館に勧請して、国衛八幡宮と称したのが始まりといわれています。永正16(1519)年に武田信虎が躑躅ヶ崎に館を築く際に、館の西側に移され府中八幡と称されました。この場所は現在の相川小学校の南西部にあたり、旧敷地の一部は同校の体育館敷地となっています。武田氏滅亡後、甲府築城の際に祈願所ならびに御城鎮守の氏神として現在地へ移され、甲斐惣社八幡宮と呼ばれ、江戸時代を通じて、特別な扱いがされていました。
(看板資料より)

夢見山伝説
むかし、武田信虎が現在の夢見山に登ったときの事、急に眠くなり石を枕に寝入ってしまいました。すると、夢に1人の男が現われ「今、甲斐国主として誕生した男児は、曽我五郎の生まれかわりである」と告げました。間もなく城から若君(後の信玄)誕生の知らせがあり、喜んだ信虎は勝千代と名づけました。ところが勝千代の右手は握ったまま開きません。心配した信虎が天桂和尚に相談すると和尚も同じ夢を見ていて、男は「その子の右手には金龍の目貫一片がある。城東の池で洗えば右手は開く」とつげ、もう一片の目貫を和尚に渡して消えました。信虎が言われたとおりにすると勝千代の右手は開き、中から目貫が出てきて和尚のものと符合しました。このことからこの山は夢山、または夢見山と名づけられたということです。
(看板資料より)

 

 
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