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長野県茅野市

池之平御座岩遺跡

2015年05月03日

池之平御座岩遺跡
御座岩遺跡は、白樺湖北岸のほぼ中央から緩傾斜で湖心に突出した安山岩の岩塊群である。この地は標高1400mの高地であり、ここから東方の雨境峠を越えて佐久へのコースは古東山道の役の行者越えとよばれ、北方へは100mほどで大門峠(標高1441m)へ通ずるなど、古くからの交通の要衝であった。白樺湖は昭和21年に造成された人造湖であるが、28年に減水した時、御座岩の南側に岩穴が現われ、先土器時代の石器、縄文早期から晩期にかけての石器、土器、土偶、耳飾りなどの土製品、さらに弥生式土器、土師器、須恵器、幣玉、宋銭などの古代から歴史時代に至る遺物も発見された。なかでも、滑石製模造品としての幣玉の出土は、この岩を磐座として峠神に旅の安全を祈願したものといわれている。この御座岩は、また武田信玄が川中島進攻の時休憩したところと伝えられている。
(看板資料より)

伝承
役の行者越え(役堂場跡)
西暦700年頃(大宝年間)、役の行者(役の小角・修験道開祖)が、日本中のお寺や山を巡り歩いて修行した際、諏訪の蓼科山登山のため、柏原より北の方に諏訪湖の水源である音無川があり、殊に平坦の土地だったので、暫く此の地に止まり、一宇の草庵と名付けた。
幸いに巨岩が二段あったので、此の岩の上で柴を焼き、護摩を焚いて蓼科山を拝み、修行した後、登山したとの事である。下山の後、行者は又、諸国巡錫に旅立たれたので、此の場所を役の行者越え、又は役堂場という。
(看板資料より)

武田信玄休憩の御座岩
戦国時代、甲斐の武田信玄は佐久、小県、北信濃の制覇に際して、いわゆる信玄の「中の棒道」を通り、柏原から御座岩へ、ここで一休みして軍団を整え、一気に大門峠を越えていった。
またここから古東山道を役の行者越えに北佐久郡へ、あるいは南佐久郡の「佐久の棒道」から大河原峠越えの軍団が諏訪側からの軍団と勢揃いするなど、信玄がここに陣を張り、御座岩に腰を据えて諸方面からの軍団の集結をはかり、軍議をこらした要所として知られている。
(看板資料より)

 



2004年06月19日

池之平御座岩遺跡
御座岩遺跡は、白樺湖北岸のほぼ中央から緩傾斜で湖心に突出した安山岩の岩塊群である。この地は標高1400mの高地であり、ここから東方の雨境峠を越えて佐久へのコースは古東山道の役の行者越えとよばれ、北方へは100mほどで大門峠(標高1441m)へ通ずるなど、古くからの交通の要衝であった。白樺湖は昭和21年に造成された人造湖であるが、28年に減水した時、御座岩の南側に岩穴が現われ、先土器時代の石器、縄文早期から晩期にかけての石器、土器、土偶、耳飾りなどの土製品、さらに弥生式土器、土師器、須恵器、幣玉、宋銭などの古代から歴史時代に至る遺物も発見された。なかでも、滑石製模造品としての幣玉の出土は、この岩を磐座として峠神に旅の安全を祈願したものといわれている。この御座岩は、また武田信玄が川中島進攻の時休憩したところと伝えられている。
(看板資料より)

伝承
役の行者越え(役堂場跡)
西暦700年頃(大宝年間)、役の行者(役の小角・修験道開祖)が、日本中のお寺や山を巡り歩いて修行した際、諏訪の蓼科山登山のため、柏原より北の方に諏訪湖の水源である音無川があり、殊に平坦の土地だったので、暫く此の地に止まり、一宇の草庵と名付けた。
幸いに巨岩が二段あったので、此の岩の上で柴を焼き、護摩を焚いて蓼科山を拝み、修行した後、登山したとの事である。下山の後、行者は又、諸国巡錫に旅立たれたので、此の場所を役の行者越え、又は役堂場という。
(看板資料より)

武田信玄休憩の御座岩
戦国時代、甲斐の武田信玄は佐久、小県、北信濃の制覇に際して、いわゆる信玄の「中の棒道」を通り、柏原から御座岩へ、ここで一休みして軍団を整え、一気に大門峠を越えていった。
またここから古東山道を役の行者越えに北佐久郡へ、あるいは南佐久郡の「佐久の棒道」から大河原峠越えの軍団が諏訪側からの軍団と勢揃いするなど、信玄がここに陣を張り、御座岩に腰を据えて諸方面からの軍団の集結をはかり、軍議をこらした要所として知られている。
(看板資料より)

 

 
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