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山梨県北杜市

風林火山館

2008年04月05日

主殿内部

以下はボランティアの説明を参考としています。
風林火山館は2007年のNHK大河ドラマ「風林火山」のロケ現場となったところです。私は今回ここに来てボランティアの説明を聞くまで、中井貴一が武田信玄役を演じた昔のNHK大河ドラマ「武田信玄」の撮影をしたところで今回の「風林火山」のロケもしたのだと思っていました。しかし実際は違っていました。武田信玄のロケ現場はもう少し小淵沢寄りなのだそうです。現地のボランティア説明員の話によると「風林火山」の撮影のためにNHKから北杜市に建設の要請が来たとのことでした。しかもNHKは資金がないので北杜市の予算で作って欲しいとのことで、北杜市が1億7千万円で9ヶ月かけて作ったのだそうです。実際に作ったのは東映映画の京都撮影所で宮大工の人たちだったそうです。ここを建設する際に山梨県の県営牧場を安く借りることができたらしいのですが、5年契約とのことで既に3年経ったのであと2年で取り壊してもとの牧場に戻さなければならないのだそうです。ずいぶんもったいない話ですね。

長屋

入口から中に入るとお土産売り場がありますが、これは撮影の際は下級武士の長屋に使われたのだそうです。そしてしばらく進むと冠木門(かぶきもん)がありますが、これは実際には無かったものなのですが、躑躅ヶ崎館から騎馬隊が出て行くときに画面に迫力を出すために作ったものなのだそうです。


館の横の長さは本物は約218メートルですが、ここの風林火山館では約70メートルなのだそうです。実際には小さいものでも撮影の技術で大きく見えるように撮影したのだそうです。

躑躅ヶ崎館は武田家の最後の3代が住んだ館であり同時に城でした。城といっても当時は天守閣や石垣などはありませんでした。この館が建設された時期から約60年後に織田信長が安土城を作りそれが天守閣の第1号なのだそうです。
躑躅ヶ崎館が建設された時は石垣を作る技術は無く、当時は土塁しかありませんでした。

大手門の両脇にある中途半端な石垣は飾りであり、武田信虎が自分の強さを周辺の豪族達に示し、恐怖心や威圧感を与えるためのだったのだそうです。

躑躅ヶ崎の館は城とはいっても防御力は低く、いざという時のために館の裏のほうに要害城がありました。何かあったら要害城に逃げ込む作戦です。実際に今川勢が大軍で攻めて来たことがありますが、信虎は奥方を要害城に避難させ、そこで生まれたのが信玄公になります。

大手門の両脇には堀がありましたが、向って左側が水堀、右側は空堀になっていました。水堀と空堀では空堀の方がすぐに敵を発見できるので防御力が高かったとのことでした。

普段大手門は閉まっていて、帰ってくると「開門!」と叫びます。すると館の内部にある御番所に詰めている人たちが門を開けにくるのだそうです。そして親方様だけが正面から入門し、他の人たちは横から入って行くのだそうです。


主殿

大手門を入ると広場になっていますが実際の館の場合はここに3千人くらい集まることができたのだそうですが、ここではせいぜい500〜600人程度だそうです。また実際の館では郭が5つあったのだそうですが、ここでは1つだけの郭を再現していました。建物は4つあって、二階櫓、御番所、厩、主殿です。厩がこんなところにあるのには理由があって、当時厩は親方様の高級車のガレージのようなものでまた毒などにも弱かったのでここなら御番所からも見張れたとのことでした。

主殿は当時は総理官邸のようなもので甲斐の国を象徴したものであり、設計図はありませんでしたが重田氏が諏訪大社をイメージしてデザインしたとのことでした。

御番所


二階櫓

的場

風林火山館をデザインした重田重盛さん
■どのように建てようか?…景観のすばらしい小荒間の地に!
NHK大河ドラマ「風林火山」の舞台となる信玄の館の撮影用オープンセットをつくることになり、館のデザインと設営責任の仕事をお引き受けすることになりました。工期を考えると不安でしたが、まずは場所の決定から始めました。
戦国大名武田氏の本拠地は甲府で、信虎が永正16(1519)年に躑躅ヶ崎館を造営したと、資料に記されています。さらに、三方を山が囲み、ゆるやかに傾斜する空間を利用して館があり、その南方に格子状に区画した城下町があったとあります。まさに京の都に似ています。八ヶ岳を背にし、躑躅ヶ崎の地形に近いロケーションで、西に甲斐駒ケ岳が望める北杜市長坂の小荒間…。ここを、風林火山館の設営場所と決めました。
■武士といえども、貴族の館に似た造り
デザインにあたっては、北杜市の観光の目玉としても堪えられることを心がけ、デザインとセットの質感もできるかぎり本物に近づくよう努めました。資料から、信玄の躑躅ヶ崎館の規模は壮大なものと想像されます。それに、館は城ではなく、武家屋敷らしい体裁は整っているものの、貴族の館に似ていました。これは信玄の人となりを表しています。戦に明け暮れた時代では稀有の大人物にふさわしい館であったと記されております。館のデザインは、全ての復元ではなくその一部の再現で、資料に記されたもんを少しでもうかがい見ていただければと思っております。
■「こだわり」と「誇り」の風林火山館、…すえながく
設営のため、多くの皆さんがこのオープンセットに「こだわり」と「誇り」をもち、完成に努力してくださったことに深く感謝いたします。この北杜士の財産を大切に可愛がって、色々な方面でご利用をいただければ、責任者であり、デザイナーの私といたしましては、大変うれしく思います。
(説明資料文章より)

 

 
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