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岐阜県飛騨市

江馬家家臣十三士之碑

2006年05月04日

最初に教えてくれた人の話では十三墓峠の近くにあるということでしたが、詳細は分かりませんでした。近くにある安国寺の住職に聞けば分かるはずであるとのことでしたので行ってみましたが、この日は法事で忙しそうで聞くことができませんでした。あきらめかけていたときに江馬輝盛の墓を発見し、そこでこの十三士之碑の場所も教えてもらいました。
安国寺からまっすぐ大阪峠(十三墓峠)に向って小さな道を進んで行くと行き止まりの少し手前のところにありました。
すぐ横の家の人に場所を聞き、車を止めさせてもらって見学しました。


十三墓峠(大阪峠)
戦国乱世後半、飛騨地方も北の江馬氏(高原郷)、南の三木氏(高山・益田)の大きな勢力に分かれていた。1582年北飛の名門江馬氏は飛騨の平定を目指し、大阪峠を越えて八日町梨打城に陣取り、これを阻もうとする三木氏・小島氏・牛丸氏の連合軍と荒城川をはさんで対峙し激戦となった。飛騨の関ヶ原の戦いとも言われるこの戦いの結果、江馬軍は敗北し江馬輝盛はこの場で討ち死にしたがその重臣河上縫殿助以下13人が後を追って死んだと伝えられる。
その霊を慰めるためこの地の人々が十三の墓を作ったことから、大阪峠のことを十三墓峠と呼ぶようになった。
この戦いに敗れた江馬氏は高原諏訪城も落とされて滅亡していき、一方三木氏は1583年牛丸氏、広瀬氏を滅ぼし飛騨地方を統一したが、豊富秀吉の命を受けた金森長近により駆逐され、以降飛騨は金森氏により平定された。
この地は古川盆地特有の朝霧が発生し、この峠の辻からの眺めは絶景である。
(看板資料より)

 

 
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