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市川三郷町

長昌寺

2005年04月15日

現地に到着して本堂の正面に行ってみるとお寺の方がいたので毘沙門天像について聞いてみました。彼は熱心に刃物を洗っているようでしたが、一度もこちらを見ることなく、毘沙門堂の場所を教えてくれました。毘沙門堂を見学した後に毘沙門天像について聞こうと思っていたのですが戻ってきたら親戚の方?が戻ってこられたようで忙しそうだったのでそれ以上のことを聞くことはできませんでした。

毘沙門堂

天正10(1582)年3月、徳川家康・織田信長の軍勢が攻めて来たので、武田勝頼は峡南の市川に迎え戦った。この合戦では、黄金の毘沙門天像の甲飾ある具足を用いたが、両軍が平塩岡で奮戦中、この毘沙門天像が欠け落ちて紛失した。数年後に市川村民と四尾連村民が相争い石合戦をした時、四尾連村民の拾った石が異様に重いので、よく見ると黄金の毘沙門天像であった。四尾連の衆は密かに自村に持ち帰り、村内の某寺に安置したところ、市川方でこれを聞き、折あらば奪取しようと企てていた。その後、四尾連では村内に悪疫が流行したので、寺僧に占わせてみると件の毘沙門天の祟りだという。村民は驚いて祈祷をすると毘沙門天からお告げがあって「大塚の郷延命山長昌院に行きたい」と言った。四尾連・大塚の両村民合議して、長昌院に遷祀を決定し、ある秋の日、大塚村民は御輿を持って毘沙門天を迎えに行った。市川村民はこれを聞いて好機至れりと、その途中を狙って待っていた。大塚村では予めこれを推知し、2、3人の者が別に茸狩に扮して、茸籠の中に仏像を入れ、山伝いに九一色村を経て帰村したので、市川村民が御輿を襲っても空しかった。毘沙門天像はこうして大塚村の長昌院に入り、境内に毘沙門堂を建立して安置した。黄金の1寸8分(約5.4cm)の立像で、現在寺宝となっている。長昌院の寺紋は武田の紋と同じく割菱を用い、また旱天の際にこの像を水中に浸せば忽ち雨が降るを言い伝えている。
(山梨県の武田氏伝説より)

 

 
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