茶臼山歴史について
慶長3年、1598年8月18日、豊臣秀吉は63才で死去。死の直前、徳川家康、前田利家、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家の五大老、現在風でいえば大物大臣である。さらに五奉行に石田三成、浅野長政、増田長盛り、前田玄以、長束正家をおいた。秀吉死去により、家臣石田三成、浅野長政軍は関ケ原で徳川家康との最後の戦となった。秀吉の長男秀頼を母淀君が庇って戦いに出さず、豊臣家の家臣が次々と徳川家に付き、関ケ原で石田三成軍が敗北した。
そのころ、真田幸村は和歌山九度山にいた。大阪城にかけつけた時、大阪城は徳川家の手におちる寸前であった。大阪城攻防で名高い茶臼山は冬の陣では家康の本陣となり、夏の陣では幸村の激戦地となった。幸村は信州の田舎の住人で父にならって優れた戦略家であった。夏の陣は冬の陣のわずか4ヶ月後のことで、幸村はただちに国分道明寺に出陣した後、大阪城最後の決戦にのぞむ。主戦となったのは茶臼山から四天王寺西門あたりで幸村軍はすさまじい勢いで家康軍に殺到したが全員討ち死にし大阪城本丸炎上。秀頼、淀君討ち死に豊臣家一代にわたる栄華は夢と消えた。
(石碑記載文章より)
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