芦田城 |
2015年05月03日 |
別名倉見山高井城と称し、文安2(1445)年、芦田(依田)又四郎光徳が築いた山城である。中山道が軽井沢岩村田を過ぎ、望月から旧芦田宿に入る手前を左に折れ、南に向かって約1km半の所、西側と東側が山脈でこの間に古村落がある。村落に続いて水田地帯が山脈の間を南に長く続き、南方が次第に高くなってゆるやかな傾斜の地形をなしている。このあたりは、白樺湖蓼科高原の入口にあたる。村落のすぐ南、道路西側に樹齢約500年くらいを経た杉の大木が2本高くそびえ、大木の間に石段と鳥居があり、上は平らな参道で、その先は急な石段が山腹の社殿まで続き、両側に杉の大木が茂り、昼なお暗い森となっている。ここが城之守護神蓼科神社で、このすぐ北の山麓に菩提寺光徳寺がある。山間と石垣が特にきわだっているこの寺は、初代城主光徳の霊を祀るため嫡子右衛門太郎光玄が建立した寺である。村落の東側には芦田川の清流が北に向って流れ、東に急傾斜の高い土手がある。頂上は円形で樹木が茂り、小さな社殿が見えている。この土居をめぐらした要害で、この東に半弓形の浅い沢があり、沢の東の小高い丘が辰巳櫓跡である。この南は沢で、西に寄るに従って深くなり、本丸の南を通って芦田川まで続いている。辰巳櫓の東南には貯水池がある。ここが城のあった当時の馬場跡で、周囲は奥が深い山岳地帯である。 |
展望台
本郭
芦田城主依田氏は、摂津源氏多田氏の末で、為公のとき信濃国伊那郡に入り、子孫大いに栄えた。『長野県史料』に源為公の子孫伊那郡に栄えるとある。為公の第5子為実が同国小県郡依田庄に居住してより依田姓を称するようになった。 |
本郭内の氏神
本郭外側の石垣
2003年06月29日 |
芦田城は、鎌倉期に滋野系芦田氏により築城された山城と推測されている。坂城の村上氏が小県、佐久地方に侵入するに伴い村上氏の配下である小県の依田氏と高井の米持氏は連合して芦田城主滋野重房軍を急襲、ついに落城し平安以来続いた滋野系芦田氏は滅亡した(依田系芦田滅年 文明18年:1486年)。 |
芦田城からの景色
ここはカーナビの指示通りに行ったらたどり着くことができず、あきらめて次に行こうとしたのですが偶然別の道からチャレンジしたら、さきほどカーナビで案内された道の反対側(道はつながっていた)に出ることができ、更に城址の入口まで車で行かれるのでとにかく勇気を出して突進していくことが重要です。 |