←前のページ トップページ↑ 次のページ→

群馬県甘楽町

麻場城

2009年09月05日

麻場城は、戦国時代のこの地の豪族白倉氏の居城であり、東方約500mに存在する仁井屋城と併せて「白蔵城」と呼ばれ、典型的な別城一郭(双子城)であると言われている。
当城は、戦国時代初期の築城とされ、豊臣秀吉の小田原征伐時に前田利家を総大将とする東山道軍に攻め落とされるまで約370年間の活躍があった。
(看板資料より)

400mを隔てた麻場・仁井屋両城からなる典型的な別城一郭の城であり、その拠る所は孫子の「常山の蛇」である。高崎城では一城内にそれが具現され、ここでは二城間にそれが成立している。武田信玄が風林火山の旗を翻して戦ったように、孫子の思想が武将・築城者を強く指導していたことがうかがわれる。『関東幕注文』中の小幡道佐は、「生島足島起請文」中にも現われ、麻場城近く墓のある白倉道佐のことであって、白倉氏は小幡一族であることを示すが、小幡氏と行動を別にし、永禄3(1560)年には上杉政虎に従い、同6年以後武田氏に属したのである。小田原の役には白倉重家は小田原に立て籠もり、城は弟の重高が守ったが北国勢に降った。麻場城の本丸は50m×70m、囲掘の幅は15m、南面中央に土橋があって二の丸に出る。北にはささ郭があり、東・西には狭い帯郭が付く。仁井屋城の本丸は方30m、南北に堀を隔てて各一郭が付き、西には三郭を通し空掘が掘られているが、東面は急崖で堀はない。両城を比較すると、麻場城は堀が大きく、一方、虎口の極陰の繩(専守防禦の城)、仁井屋城は四方に虎口を開いた陽の繩(攻勢防禦の城)であり、相似の二城も本質的には首尾(主客)が明らかで、築城者の意図をよく察することができる。
(日本城郭大系より)

麻場城はかなり整備された城跡でした。駐車場もあって説明板もありました。駐車場から坂を登っていくと中央の郭の周囲にかなり大きな空掘があって橋を経て本丸に行くことができました。

 

 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→