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ブハラへ


<29日目>1989年3月9日(木)

5:00起床。小便はビール臭い。がスッキリする。酒を飲むと熟睡できる。起きてみるとコーラの缶があった。日名子はあれからまたバーへ行ったみたいだ。昨日は1時過ぎに寝たらしい。だから昼間元気がないのだ。旅に出たら早寝早起きが一番いいのだが彼は寝るのが遅い。〜5:30まで歯を磨いて頭をなおす。

6時を過ぎたので日名子を起こす。私はさっさと荷物をまとめてコートまで着て煙草を吸う。6:40になったので先に部屋を出て下へ行く。すでにドイツの人達は来ていた。あの女の人もいた。この人はトランスファーをつけているらしい。我々はこのドイツの団体と一緒に空港へ行く。7時にはバスに乗り出発である。サマルカンドは空港が近いのですぐに到着である。団体は空港の中に入って行ったがみんな荷物を持っていない。我々は荷物を持っているのでこの人達と一緒に入っていってはいけないと思い、ロシア人専用口から入るがさっきのところでいいらしい。入ってみるとあの女の人とアメリカ人もいた。このアメリカ人のおばさんと日本の女の人は何やらしゃべっている。7:55離陸予定であるが7:45にやっと飛行機に乗り込むことができた。全席自由席である。私は一番前の左側に座る。プロペラのちょうど隣だ。うるさいだろう。

8時には離陸した。プロペラ機なのであまり高くは飛ばない。下の景色が良く見える。サマルカンドの町を出てからは砂漠になった。砂の色が赤い。紅色をしている。多分ここは赤い砂漠というところだろう。そのうち寝てしまう。が、気がつくと飛行機は着陸していた。本当に静かに着陸するもんだ。さすがアエロフロートのパイロットは全員元軍人だ。テクニックは世界一だろう。8:30にはブハラに着いてしまった。30分しかかからなかった。我々はトランスファーをつけていないのだがこの女の人の車で一緒に行くことになってしまった。ホテルに着いて荷物は部屋まで全部運んでくれるし、こりゃ後で金を取られるわ!

すぐに下へ行き朝食である。ビュッフェ形式ではない! 日名子はいらだっている。というか元気がない。「おれはやっぱり都会の方がいい!」などと言い出してきた。こいつはとてもじゃないが中国へは行けないだろう。部屋に戻ってきてベランダで煙草を吸っているうちに日名子が先に出かけてしまった。私も10:30に出発である。今日は1日旧市街へ行くことにした。なにしろ今日を含めて4日もこのブハラにいるのだからゆっくり見てまわらないと時間が余ってしまうのだ。。。

ホテルを出て10月革命40周年通りを左へ進み、ソヴェーツカヤ通りを北に上って、タキサラファンへ来た。この門をくぐると景色は一変した。別世界だ! マゴキアタリ寺院の所でベンチに座り煙草を吸う。ここにはラクダがいた。非常にいい雰囲気の町だ。ブハラに対するイメージが変わる。ブハラはもっとおもしろくない所かと思っていたのだが、非常に気に入った。4泊になっていて正解だったようだ。町の雰囲気はサマルカンドよりいい! ここからフルンゼ通りを北に進む。タキテリパクフルシャンを通り、タキザルガランへ来て左に曲がる。今日はあまり写真は撮らないことにした。途中クニギ(本屋)に入ってブハラの地図を買おうとするが、売っていないらしい。ここで中央アジアの本を勧められる。なかなかいい本だが18ルーブルもする。私は今4ルーブルしかないので買えない。明日また来ることにしよう。しばらく歩くと右側に故城が見えてきた。アルクだ。ブハラの王が住んでいたところだ。ここには寄らずにイスマイルサマニ廟を目指す。途中公園で一服してキーロフ公園へと入る。これがまた地図と違ってでかい公園だ。ドンドン歩くのだがイスマイルサマニ廟は見当たらない。それでも更に奥へ進む。池があった。水は少なくなっている。池の周りには崩れかかった城壁跡みたいなものがある。この反対側に人が大勢いたので掃除のおばちゃんに、シュトーエタと聞いてみると、これがイスマイルサマニらしい。あまり大きいものではない。がやはり見所なのだろう。団体客が後を絶たない。私は人がいなくなったのを見計らって写真を撮る。中をのぞいて見たがなにやら墓みたいなものがあった。

イスマイル・サマニ廟

中央アジアで最も美しいといわれる廟

ここから北へ向かって歩いていってみると、チャシュマアユブ廟がありました。これもそんなに大きなものではなかった。この北側にバザールがあったので入ってみる。シシカバブーもあったが奥へ進む。布きれやズボンみたいなものばかりである。空手の下敷きみたいなものもあった。こちらではブルースリーの人気がすごい。空手道と日本語で書いてあった。このバザールの隣はさっきの池だ。ここから写真を撮る。

帰りにシシカバブーに立ち寄り食べようとするがなかなか焼けないらしくずいぶん待たされる。後の男の人といろいろ話す。今の日本は寒いのだの行きが降るだのいろいろ話した。バザールを出て来る時に見たアルクへと進む。その前にバラハウズ寺院に寄る。屋根を支えている柱が今にも倒れそうな柱だった。手前に池があってその反対側から写真を撮る。ハウズというのは貯水池のようなものだ。ブハラにはあちこちにこのハウズと呼ばれる池を見ることができる。アルクに到着しここで西門の写真を撮っているとなんと日名子氏と会う。彼は新旧市街の方を歩いてきたらしい。一緒にアルクに入る。アルクとはブハラ王の城でブハラ汗国の王がここに住んでいたのだ。7世紀に最初の層が作られ現在の姿になったのが18世紀だそうだ。城内には歴史博物館があり、死刑の様子などがあった。ブハラの死刑は首チョンパである。

アルク

ブハラ汗国の宮殿跡

アルクの中で日名子氏と分かれて私は今日はこのくらいにしておこうと決めてホテルへ戻る。途中マゴキアタリ寺院の前でラクダを見ながら煙草を吸っているうちに少年と出会った。言葉がまったく分からないので会話集を出してやったら真剣に読んでいた。一緒に写真を撮ると住所を教えてくれた。何やら日本に送りたいというので私の住所も教えてやった。ブハラの少年はサマルカンドのそれと違ってやれガムだのペンだのとは言わない。煙草をやろうとしたが断っていた。この2人は15と12で兄弟らしい。親切にいろいろ話してくれるのだがほとんど分からなかった。マゴキアタリ寺院を見て、リャビハウズへ連れて行ってくれて、餃子みたいなものを食べて彼らとは別れた。このリャビハウズの近くでソークを買ってタキサラファンを通って帰ってきた。ホテルに着いて両替をして部屋へ戻ってきた。15:30

日記を書こうと思っていたが、17時近くなって日名子氏が帰ってきてすぐに寝てしまった。

<補足>
アルクからマゴキアタリに来る途中、カリヤンミナレットを見てきた。両側にミナレットがあり、ブハラでは一番の見所だと思う。子供達が遊んでいた。トーキョーを知っていた。

 

 
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