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ハバロフスク到着


<2日目>1989年2月10日(金)

さて、ここからは2月10日になる。日名子は寝てしまうし、私はタバコをすい続ける。前の席のやつは上から水がたれてくるらしく一番前の席へ移動した。この席は最悪であった。みんながトイレに行ったり、ジュースを買いに行ったりするたびにドアがガタガタしてとて寝られる席ではない。結局我らの席の前は空席になり私は広々とした空間で満足していた。が、右桂馬前の男の人がここの席に来てしまう。実はこの人の隣は女の人で、この人も気を使って嫌だったのだろう。それにドアの近くでうるさいし…。また水はたれてくるが、この人はひるまない。うるさい。まるで井上のように高らかないびきを鳴らして寝た。

12:55には高崎到着。この後は4時過ぎの長岡まで扉は開かないらしい。これで静かに眠れる。前橋で停車したあたりから私も寝ることができた。……

4:10、「次は長岡、長岡」との放送で目が覚める。4:12には長岡に到着である。日名子もようやく起きた。喉が痛いというので来るときにポケットに入れておいた飴を恵んでやった。あとは新潟で降り遅れないようにずっと起きていた。

見附、東三条、加茂、新津そして5:12に新潟に到着である。ここで大半の人が降りてしまった。待合室の喫煙所でタバコを吸いつつこれから今日の午前の予定などについて考える。
新潟についてびっくりしたのは、まず雪がひとかけらも無いということだった。それに全然暖かい(まぁ東京よりは寒いが)のだ。こりゃどうなっとんじゃ?

私は新潟でも勝った。シャツ1枚男はさすがに新潟にも見当たらない。ひとまず5:45になって荷物をコインロッカーに預け町へ出ることにする。がその前に駅の食堂へ行く。(いや、この前に禁煙の待合室でプレイボーイを見る。日名子は寝ていた)…… 7:00に食堂に入る。
食堂では私はミックスサンド、日名子はカレーセットを食う。会社へ出勤する人たちが朝食を取っていて混んでいたが、そのうちすいてきた。

8時には食堂を出て市内へ出る。まるで方向が分からないのだがとにかく歩く。新潟という町は何も無いところだ。と思っていたが、駅からかなり歩いてやっとダイエーやらボーリング場に出くわす。しかしまだ8時過ぎなので開店していない。

8:30にボーリング場の隣のマクドナルドへ入ることにした。コーヒーを頼んで時間を潰す。私は眠くなってしまい、少し寝てしまう。また雨も降り出してきた。日名子がコインロッカーに傘を忘れてきてしまったらしいが、彼なら雨の中でも歩くだろう。

10時にはマクドナルドを出て駅へ戻る。バス乗り場を確かめようとバスのおばちゃんに出発時刻を聞く。出発は10時20分と40分だそうだ。今10:15、10:20のに乗るしかない!と、急いで荷物を取り出し、バス乗り場へ直行!運がいい。バスもきれいだ。10:20には出発して空港に向う。

10:50、新潟空港到着である。アエロフロート前の椅子に座ってしばらく様子をみることにする。
大韓航空の人たちがゴルフセットを担いで荷物のチェックを受けていた。大韓航空はチェックが厳しい。そのうちテレビカメラを担いだ人達がやってきてなにやら取材をしている。どうやらサハリンの朝鮮人達が日本に来たらしいが詳しいことは良く分からない。
12時過ぎにレストランに行って昼食を食べる。私はスパゲッティ、日名子はカツ重。

13時には搭乗手続きをして、14:40にボディーチェックらしいので席に座って待つ。前の灰皿が火事で煙がすごい。結局チェックは15:05開始で、税関通過後タバコを買い、15:35には機内に乗り込む。座席は25Fと25E。またもや窓側の席だ。それにしても座席がきつい。狭い

16時にとうとう離陸である。この瞬間はいつも緊張するものだ。飛びあがってすぐに日本海が見え、またすぐに雲の中に突入する。1時間くらいたって飲み物のサービスが始まり、弁当が配られた。さっさと食って外を見ているとふと雲の割れ目から海岸線が見える。とうとうユーラシア大陸に突入である。シベリアである。景色が異様で一面雪で山地らしい。

しばらくして、飛行機が降下し始め外に光がちらほら見え始めた。これはハバロフスクの市内に違いない。景色は何だか沼地のような感じだが多分雪だろう。

17:55着陸する。外へ出てみて第一印象はそんなに寒くないではないか!といった感じである。
階段を降りるとロシア人がずらーっと並んでいてちょっと恐い。歩いていてすぐに先ほどの第一印象がくずれた。寒い。耳が痛い。コートが冷たい。おおーっ。

空港の建物に入ると暖かい。入国審査はすぐに終わったのだが、それから荷物の検査に非常に時間がかかり外に出たのが20時ころだっただろうか?そこへ変な男が来てバウチャーを見せろという。トランスファーの人だろう。とりあえずこの人は置いておいて、円とルーブルの両替をする。私は3万円で約140Rである。両替が終わると何だか分からずにタクシーに乗るらしい。男の人1人と女の人1人と我々2人である。女の人は上智大学の人で佐倉に住んでいるという。ソ連は2回目らしくハバロフスクは知っているらしい。

ホテルに着いてフロントへ行くと日本語を話すロシア人(インツーリストの人)2人(女性)に案内してもらって部屋に入る。この人たちは陽気でおもしろい。21時近くに部屋に入り、一服した後レストランへ夕食を食べに行く。ここでは生バンドの演奏で地元のロシア人達が大勢来ていてみんな陽気に踊っている。ここでソ連に対するイメージはいっぺんに崩れた。日名子はあっけにとられたようでショックを受けていた。

その後アムール川へ行こうと外へ出るが道が分からずに帰ってくる。日名子氏の強い要求を受けて再び今度は1階の地図で確認した後ホテルを出る。ホテルのドアを開けると強い風が入り込み超寒い。さすがの私も耳が痛い。今回は先ほどと逆方向に進んだが結局分からない。ホテルから一緒に出てきた団体の一人に「グジェーアムールリヴァー?」と聞くと通じたらしいが英語が話せるらしい。我々はこの男にアムール川に連れていってもらうことにした。「家に来ないか?」と誘われたが私は反対した。

アムール川にはすぐに着いた。真っ暗な中に一面氷で覆われているアムール川があった。対岸は暗くて見えないし異様な雰囲気である。そのうちこの男(サーシャ:21才)は帽子を出して来たり、マトリョーシュカを出して来たりして日本円と両替しろと来た!はじめからどうもくさいと思っていたが、こいつは商売しているのだ。何でカバンの中に人形や帽子が入っていなければならないのか!そのうちサーシャは時間を気にし始めたので帰ることにしたが、日名子が急に騒ぎ始めた。「財布が無い!」まるでSHOPだ!体じゅう探したが無い。サーシャがもとの場所へ戻って財布を見つけてきてくれた。私は最初サーシャが盗んだのかと思っていた。が親切にも拾ってきてくれたのだ。しかし私は気を緩めない。日名子はサーシャを信用していたが。。。。

川から上がってくると女の人が待っていた。この男の人の知り合いらしい。話をしながらホテルまで一緒に歩いた。この女の人はミーシャといって年は21才。英語があまりできないので、私はロシア語で話す。日名子氏はサーシャと話していたが、ホテルへ来てみるとやっぱり私の思っていた通り、サーシャはシャツやタバコ、ライター、ガムなどを要求しているらしい。人のいい日名子は部屋まで取りに行くことにして、私もつきあうことにした。日名子はシャツ、私は100円ライターをもって外へ戻り、渡した。
我々はマトリョーシュカや帽子がもらえたのでまぁいいだろう(日名子は4000円支払った)。部屋に帰ってきて、マトリョーシュカを開けてみると、日名子の方は大きかったのだが2個だけ、続きは私の分の方であった。小さいほうを取った私は正解だった。

0時に地下の外貨バーへビールを飲みに行った。中にいたのは全員日本人である。これじゃあ日本にいるのと同じだ。カウンターには日本のビジネスマンらしき人達がずらっといて、我々はテーブルの方の席についた。ビール2本で500円だった。今日はなんだかんだあって疲れていたのでこれだけで酔ってしまったがもう1本たのみに行く。

学生が入ってきて隣に座った。彼は明治大学の4年生でやはり今日の飛行機でハバロフスクに来たらしい。卒業旅行でソ連を抜けてワルシャワからインドへ行くという。彼から2人旅の難しさの話を聞き、なるほどと思った。また彼の話によると今日の気温は−13℃〜−16℃くらいらしい。さすがに寒かったっはずだ。九州の人だそうで、私は九州の人に間違われた。1時になったのでバーを出て部屋に帰ってきてベッドに横になって、それからはもう記憶がなかった。日名子氏は風呂に入ったらしい。

 

 

 
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