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ムルマンスクへ


<16日目>1989年2月24日(金)

5:45起床。シャワーを浴びる。なんだか朝シャワーを浴びるのが癖になってしまった。相変わらず日名子氏は寝ている。彼はアイスを食べるのだけは早いがあとはのんびりである。テレビをつけたらニュースで今日の大葬の礼のことをやっていた。ブッシュ大統領やミッテラン大統領などが映っていた。東京は雨のようだ。そのうち朝の体操になり日名子はモモヒキ姿で体操をまねする。私が写真を撮ろうとしたが失敗であった。

今日でモスクワともお別れである。チェックアウトしたりいろいろ忙しい。7:50に部屋を出ていつものコートを預ける所へいき荷物を預けようとするが断られる。玄関の方へ行け!と言われた。玄関の方へ行って8:30まで荷物を預かってもらうことにしてコートを預けにさっきのところへ行く。ここでコートを預けて2Fのレストランへ朝食を食べに行く。〜8:20

食後フロントへ行き、チェックアウトして電話代1万円取られる。日名子と2人で5000円ずつだ。高い! もう電話はするまいと密かに誓う。次に左の方へ行ってパスポートをもらう。これで手続きはフショーである。荷物を持ってフロントの前の椅子に座り、後はタクシーが来るのを待つだけだ。座っていると韓国の人達(カメラを抱えているので多分テレビ局の人たちだろう)がいた。そのうちフロントから声がかかりタクシーのナンバーを教えてもらい、これ以外の車には乗ってはいけないと言われた。

8:45ちょっと早めにタクシーを見つけて乗り込む。いったんクレムリンの方へ出てボリショイ劇場の方からまたゴーリキー通りに戻ってきてゴーリキー通りを北西に進む。車線はあってないようなものでまるでカーレースである。この運転手はやたらとスピードを出し、モスクワの街中の道を100〜110km/hでとばす。空港までは結構遠い。そして車はシェレメチェボ2に行ってしまう。すぐに1に行くことを告げて再び車は走る。

9:45ごろシェレメーチェボ1に到着する。ここの空港の便所は非常に汚かった。その後ムルマンスク(6)に並び我らの順番になるがここではチェックインできないらしい。インツーリストへ行けと言われた。しかたなく行く。ムルマンスクへ行く外国人はどうも我々だけらしい。すんなりチェックインして待合室で10:30まで待つことになった。私はベリョースカへ行って店の中を見ていたが、ソ連の各共和国のバッジが4ドルで売っていたので買った。ここの店の人は少々日本語をしゃべった。「ありがとさん」だと!10:30にボディーチェックをを受けて空港のバスに乗る。我々の乗る飛行機の前まで来てみると飛行機の前に大勢のロシア人たちが飛行機に乗るために待っていた。が我々は優先的に乗り込むことができ前の方のいい席に乗れた。この前の国際線より全然座席は広いしいい席だった。乗り込んでそのうちに私としたことがウトウトと寝てしまった。11:20ごろには離陸しただろうか?あまりはっきりとは覚えていない。途中ジュースを配りに来たときだけ目覚めてジュースを飲んだ。

日名子氏は飛行機に乗る前かなり緊張して疲れているみたいだった。彼は移動の日になるとどうも元気がなくなる。目的地に着くと復活するのだが。。。

1:00に目が覚めて外を見ると、太陽の位置が低い。下はたくさんの湖と森林とあと雪だ。1:15ちょうど2時間でムルマンスクに到着。ここではトランスファーがついているので飛行機をおりると女の人が、I'm waiting for you! と言ってくれてお出迎えである。こんなことなら全部トランスファーをつけてりゃあよかったと思った。特別室で待たされ、荷物札を預けると荷物を持ってきてくれた。15〜20分ぐらいでタクシーが来るらしい。

1:50にはタクシーが来た。道は凍っていてすごい道なのにこの運転手は130km/hぐらいでとばす。どんどん他の車を抜いていく。車はまっすぐに走らずにすべりまくる。乗っていて恐い。колаの町を通って街中に入っていき、14:30過ぎにはアールクチカホテルに到着する。ここは成田並に空港が遠いところだ。ホテルにつくと中から男の人が出迎えてくれて荷物を運んでくれた。トランスファーはすごい。ホテルのチェックインもこの男の人がやってくれて部屋まで荷物を運んでくれた。

部屋は502号室で今までで一番いい部屋だ。テレビの画面もでかい。ショップ宅のと同じくらいだろうか?その後バウチャーを渡しに1Fへ行くが2Fへ行けと言われた。2Fにインツーリストがあったのでここでホテルのバウチャーと列車のバウチャーを渡す。2月26日は9:40にホテルにタクシーが来て10:10にはレニングラード行きの列車がでるらしい。列車はNo.49だ。明日10:40に船のツアーに参加することになった。あとここの人はいろいろと親切で美術館の場所を教えてくれたりした。そのうちレニングラードへは列車じゃなくて飛行機で行ったらどうかと言ってきたが我々は鉄道で行くことにした。そこから2Fの食堂へ行き昼食を食べようとしたが(15:20〜)また拒否された。少しねばったら入れてくれた。メニューを見ても全然分からないのでステーキと言って肉を切るまねをして後はコフェである。ここはそんなに待たずに食べることができた。肉はハンバーグみたいなものだった。日名子がやたらとシャックリをしていた。部屋に戻り私は外へ行く準備をするが日名子氏は寝るらしい。移動の日は本当に駄目なやつだ。

16時に外に出る。寒い!帽子が必要だ。が、耳までは隠さなくてもすむ。ホテルの前の憲法広場で子供がいたのでレーニン通りはどれなのかを聞いてレーニン通りを過ぎてミュージアムに行ってみることにした。途中食料品屋があったがジュースと玉ねぎしかなかった。トマトジュースがあった。ミュージアムにはすぐに到着。入ってコートを預けて入場券を買い、またあの変な履物を履く。1Fは通路になっていて絵があった。ムルマンスクのものばかりだ。2Fへ行くとムルマンスク周辺にいる動物や鳥、白熊、鹿、狼、魚等があった。ここも通路には絵があった。もうひとつの部屋にはここの石が展示されていた。3Fには石、化石等の古代の遺跡みたいなものや人骨もあった。ムルマンスクの鉄道や船、奥に行くと第2次大戦に関するものがあった。ショップが喜びそうなところだ。その他北極探検に関するものやムルマンスク〜レニングラードの鉄道についてや、あとムルマンスクの昔の民族衣装みたいなものがあって、あのイルクーツクで見たモンゴル人のと似ていたがモンゴルのより華やかさがなかった。ホテルの周りの道をぐるっとまわってホテルの前に戻ってきて百貨店に入る。ここで靴下を買った。あの分厚い靴下が臭くてもう限界なのだ。この百貨店にあの軍隊帽子が売っていた。しかしソ連のマークはついていなかった。レイチャールズのレコードもあった。百貨店の温度計は、−12℃だった。さすがに帽子を耳まで下げた。耳が痛くなってくる。

この町は今までの中で一番雪の多い町だ。町中の歩道が雪の上にあるのだ。18時前にホテルに戻ってきて5Fのカフェでソークを買い、部屋に戻ってくる。このソークがレモンジュースでうまい。もう1本の方は芋ジュースでまずかった。日名子氏は寝られなかったらしい。19時になったので5Fのカフェに行って夕食である。鳥のモモ肉やケフィール、ハム等を食べる。


北緯68度58分の町。ここは北極圏であります。
北極圏内で唯一トロリーバスの走っている町であるムルマンスク。

部屋に戻ってきて私が風呂に入っているうちに日名子氏はアイスホッケーを見つつ寝てしまった。21時になったのでそろそろオーロラの時間かと思い外へ行こうとするが日名子氏も起きて一緒に行くことになった。町中を歩いたが町が明るくてオーロラは見えない。海が近いので水蒸気で町全体が覆われている。寒いのでホテルにいったん戻って来る。今の気温が−17℃。ロビーで座っているとあの中大の2人がいた。今日レニングラードから着いたらしい。彼らは3泊もするのだ。

我々は22時過ぎに再び外へ出る。デパートの温度計はもう−19℃である。ただ立っているだけでは寒いので私は憲法広場の雪の山に道路を作ることにした。柔道の足払いである。23時過ぎてもオーロラらしきものは見えないのであきらめてホテルに戻ってくる。鍵をもらおうとしたらロシア人の女の人に私のバッジをジロジロ見られた。そういえば22時に一回戻ってきたときにロビーでバッジを1個買った。(ムルマンスクのもの)その後4Fの中大の2人のところに寄って煙草を売って部屋に戻ってきて寝た。
<目覚まし時計が無くなってしまった>


この日はオーロラを探して町をさまよう。

 
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