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広島市

揚柳観音


2009年08月12日

本尊の観音菩薩像は聖武天皇の勅彫にして行基菩薩の点眼と伝えられる。当国来至の由縁、弘安6(1283)年甲斐の国巨摩郡原田の庄より武田信隆が安芸の国の国司として西下の折、近江の国きぬ川を渡らんとする時、馬の尾に食いつくものがあるので不思議に思い調べてみると、甲斐の国に残しておいた武田家に伝わる楊柳観音であった。信隆は大変喜び、武田山麓の粟原(現在の青原)に堂宇を造り、これを安置した。
暦応3(1340)年、廿日市の桜尾城主平の賀家が銀山城を攻めた時、当寺青原にあった安神社と共に兵火にあったのでその難を逃れて一旦金蔵寺信重の屋敷へ移し、69年の後、応永年間(1409)現在地に移ったのである。これをもって粟原山尾喰寺楊柳観音と呼ばれるようになった。
「知新集」には安産の観音様とあり、古来腹帯をうける人多く、広く民衆に親しまれている。
近年、有縁の人々の浄財により本堂の大修復(昭和48年)、茶堂、鐘楼の再建、屋根葺替え(昭和58年)をし現在に至る。
(看板資料より)

1283年、武田信隆が安芸国に下る時、旅の途中で馬の尾に喰いつくものがあるので調べてみると、それは甲斐に残した武田家に伝わる楊柳観音でした。信隆は大変喜び、武田山麓に堂を造り、これを安置したと伝えられています。その後1340年に兵火でお堂が焼け、武田信栄が西原に移して安置しました。
(広島市ホームページより)

 

 
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