山県昌景陣地(山県三郎兵衛昌景の墓、高坂又八郎助宣の墓他) |
2014年08月16日 |
信玄以来の宿老山県昌景は54歳の時であり、家康陣に九度に及ぶ攻撃をして銃弾を受け討死し、山県の被官志村又右衛門が走り寄り、主人の首級を切り落とし、遺体はくれぐれも供養をお願いする旨の書状と、短刀小烏丸を添え残し置き、自らは主人の首級を抱えて立ち去った。村人は山県の死屍を山県陣地横に埋葬し、横に松を植え「胴切松」と呼んでいたが、大正末期に枯死した。今は代りに植えた桧が天を突く巨木になっている。枯死した胴切松は、火おんどりの火種の松明(タイ)として長く使われてきた。 天正3(1575)年5月21日、夜来の雨が上がった早暁、鳶ヶ巣山方面の武田軍砦に上がった銃声で、酒井隊の突入を知った大久保隊は、武田軍左翼の山県昌景陣地へ鉄砲を撃ちかけた。勝頼は敵が後方に回ったことを知り、突撃の命令を下し、ここに「設楽原の決戦」の火ぶたが切られたのである。昌景は大久保隊の攻撃を足軽を出して競り合っていたが、次第に誘い込まれて、「あの柵を押し破れ」と三千の赤備えが一斉に突進した。大久保隊は十分に引き寄せて、三百挺の鉄砲を間断なく撃ち続けた。そこで山県隊は、大久保隊の右、連吾川の下流を迂回して柵の無い南側から徳川軍の側方へ出ようとしたが、両岸ともに急峻で渡ることができない。 |
山県甚太郎昌次の墓
高坂又八郎助宣之墓
高坂又八郎助宣之墓について
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2013年07月06日 |
信玄以来の宿老山県昌景は54歳の時であり、家康陣に九度に及ぶ攻撃をして銃弾を受け討死し、山県の被官志村又右衛門が走り寄り、主人の首級を切り落とし、遺体はくれぐれも供養をお願いする旨の書状と、短刀小烏丸を添え残し置き、自らは主人の首級を抱えて立ち去った。村人は山県の死屍を山県陣地横に埋葬し、横に松を植え「胴切松」と呼んでいたが、大正末期に枯死した。今は代りに植えた桧が天を突く巨木になっている。枯死した胴切松は、火おんどりの火種の松明(タイ)として長く使われてきた。 |
天正3(1575)年5月21日、夜来の雨が上がった早暁、鳶ヶ巣山方面の武田軍砦に上がった銃声で、酒井隊の突入を知った大久保隊は、武田軍左翼の山県昌景陣地へ鉄砲を撃ちかけた。勝頼は敵が後方に回ったことを知り、突撃の命令を下し、ここに「設楽原の決戦」の火ぶたが切られたのである。昌景は大久保隊の攻撃を足軽を出して競り合っていたが、次第に誘い込まれて、「あの柵を押し破れ」と三千の赤備えが一斉に突進した。大久保隊は十分に引き寄せて、三百挺の鉄砲を間断なく撃ち続けた。そこで山県隊は、大久保隊の右、連吾川の下流を迂回して柵の無い南側から徳川軍の側方へ出ようとしたが、両岸ともに急峻で渡ることができない。 |
高坂又八郎助宣之墓について 山県の墓は設楽原歴史資料館から南に向かって歩いていくと途中で右に降っていった所にあります。今回はその右に曲る場所がなかなか見つかりませんでした。思っていたよりもっと南側だったようです。
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2003年10月12日 |
や 山県三郎兵衛昌景は武田軍の左翼に陣を敷いた。長篠合戦余話によると、山県昌景は両腕の自由を失ったので采配を口にくわえて指揮していたが、敵の弾丸に馬を撃たれ落馬してしまった。配下の志村又右衛門が胴切山の中腹に昌景を運んだが既に亡くなっていたという。敵が迫ってきていたので首を落として落ち延びたので敵に首は渡すことはなかった。死体は後日ここに埋められ厚く葬られたという。 |
山県三郎兵衛昌景、山県甚太郎昌次、従士名取又左エ門道忠、高坂又八郎助宣の墓が並ぶ。
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