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愛知県新城市

山県昌景陣地(山県三郎兵衛昌景の墓、高坂又八郎助宣の墓他)

2014年08月16日

信玄以来の宿老山県昌景は54歳の時であり、家康陣に九度に及ぶ攻撃をして銃弾を受け討死し、山県の被官志村又右衛門が走り寄り、主人の首級を切り落とし、遺体はくれぐれも供養をお願いする旨の書状と、短刀小烏丸を添え残し置き、自らは主人の首級を抱えて立ち去った。村人は山県の死屍を山県陣地横に埋葬し、横に松を植え「胴切松」と呼んでいたが、大正末期に枯死した。今は代りに植えた桧が天を突く巨木になっている。枯死した胴切松は、火おんどりの火種の松明(タイ)として長く使われてきた。
短刀小烏丸は、元庄屋の峯田家に370年間に渡り大切に預けられていたが、昭和20年、太平洋戦争の終結後、進駐軍の刀狩りによって没収された。
巨木桧の元に5基の墓碑が並んでいる。左の「山県三郎兵衛昌景之碑」武将の碑(高さ124センチ、幅125センチ)は、大正3年、長篠古戦場顕彰会により建立された。その右の「山県墓」の墓碑は吉田(豊橋市)上伝馬の住人夏目可敬の成した『三河国名所図絵』に「山県墓」とあるが、可敬は文久2(1862)年に没しているので、これ以前に誰かにより建立されたことになる。高さ105センチ、幅36センチ程の自然石の墓である。この右に宝篋印塔が立ち、右横に子甚太郎昌次の墓が並んでいる。『藷山随筆』によれば山県甚太郎昌次、従士名取又左衛門道忠之墓は「石塔は尺三四寸(40センチ)の野面石に左のやうなる書付有之候」とある。更に右に「高坂又八郎助宣之墓」がある。『藷山随筆』に「新間原の中にて候が土饅頭有之其上に、小さき石塔に高坂又八郎助宣之墓と記し有之候」とあり、設楽原をまもる会は今は無き『藷山随筆』の墓碑を哀れみ、平成9年3月再建した。助宣は、高坂弾正夫妻の極めて身近な一族の一人であると推測される。
(東三河の史跡めぐりより)

天正3(1575)年5月21日、夜来の雨が上がった早暁、鳶ヶ巣山方面の武田軍砦に上がった銃声で、酒井隊の突入を知った大久保隊は、武田軍左翼の山県昌景陣地へ鉄砲を撃ちかけた。勝頼は敵が後方に回ったことを知り、突撃の命令を下し、ここに「設楽原の決戦」の火ぶたが切られたのである。昌景は大久保隊の攻撃を足軽を出して競り合っていたが、次第に誘い込まれて、「あの柵を押し破れ」と三千の赤備えが一斉に突進した。大久保隊は十分に引き寄せて、三百挺の鉄砲を間断なく撃ち続けた。そこで山県隊は、大久保隊の右、連吾川の下流を迂回して柵の無い南側から徳川軍の側方へ出ようとしたが、両岸ともに急峻で渡ることができない。
やむなく山県隊は手勢を率いて雁峯山寄りの佐久間隊へ目標を変え、筋違いに激しい攻撃を加えた。この攻撃に対して織田軍は柴田、丹羽、羽柴隊が側面より、これを阻止しようと戦いを挑んできた。その織田軍を再び山県隊が攻めて追い込み、なお後備えを立て直すと、弾正丘陵のほぼ中央にある徳川本陣に迫ろうとしていた。この山県隊の攻撃を迎えたのは、本多忠勝隊であった。
歴戦の勇将山県昌景は、背は低く、みつ口、胸は一枚あばらで、疲れを知らぬ強靭なからだの持ち主で黒地に白桔梗の旗指物を背に、戦場を駆け巡る姿は、敵味方両軍の注目の的であった。それ故に徳川方銃手の格好の標的となった。
昌景はからだ中蜂の巣のように銃弾を浴びて、遂に両手の自由を失ってしまったが、采配を口にくわえて指揮を続けたという。が、さすがの猛将山県も飛び来た弾丸が鞍の前輪を打ち抜いたため、落馬してしまった。彼の従者である志村又右衛門が走り寄り、主人を抱え後方に退き、打ち寄せる敵軍を前に、志村は主人の首級を切り落とし、遺体にはくれぐれも供養をお願いする旨の書状と短刀「小烏丸」を添えて残し置き、自らは主人の首級を抱えて立ち去ったという。
(設楽原戦場考より)

山県甚太郎昌次の墓


高坂又八郎助宣之墓

高坂又八郎助宣之墓について
有海原で討死したと考えられていた又八郎助宣の墓が『藷山随筆』では、新間原にありとある。長篠城監視隊として高坂源五郎昌澄の下で有海原に布陣していた又八郎助宣が、新間原で討死するに至る経緯を考えてみたい。
@長篠城監視隊の任務を解かれた又八郎助宣は、設楽原の本隊に合流し、最後の配陣で本陣左脇備えに属し、新間原から山形高地あたりで、佐久間信盛の臣、佐久間三左エ門に討たれた。(『長篇長篠軍記』による鎌子信治説)
A鳶ヶ巣山の奇襲を知った長篠城監視隊の小山田・相木・天野・高坂又八郎助宣等は、岩代川を渡り救援に駆けつけたがもはやてのつけようもなく、辛くも脱出してきた五味、名和等と共に反転し、設楽原に向かい、その途中、前を行く松平伊忠を討ち取り、一旦本隊に合流した。(『設楽原戦史考』による牧野文斎説)
B遊軍として有海原に布陣していた山県昌景隊が、設楽原に向かうとき、源五郎昌澄の命により山県隊に参加し、以降昌景と行動を共にし討死した。(山県昌景親子と又八郎助宣の墓の位置、山県昌景と高坂弾正との交友関係から推測した仮説)
C前記三説とは逆に、高坂又八郎助宣は源五郎昌澄の部下としてではなく、前述した香坂一党を率いた将として参戦、緒戦から新間原に布陣して討死した。
いずれの経緯をたどったにせよ、新間原に現れた又八郎助宣は壮烈な最期をとげ、設楽原にその名を残すことになる。
(「設楽原戦場考」より)

 



2013年07月06日

信玄以来の宿老山県昌景は54歳の時であり、家康陣に九度に及ぶ攻撃をして銃弾を受け討死し、山県の被官志村又右衛門が走り寄り、主人の首級を切り落とし、遺体はくれぐれも供養をお願いする旨の書状と、短刀小烏丸を添え残し置き、自らは主人の首級を抱えて立ち去った。村人は山県の死屍を山県陣地横に埋葬し、横に松を植え「胴切松」と呼んでいたが、大正末期に枯死した。今は代りに植えた桧が天を突く巨木になっている。枯死した胴切松は、火おんどりの火種の松明(タイ)として長く使われてきた。
短刀小烏丸は、元庄屋の峯田家に370年間に渡り大切に預けられていたが、昭和20年、太平洋戦争の終結後、進駐軍の刀狩りによって没収された。
巨木桧の元に5基の墓碑が並んでいる。左の「山県三郎兵衛昌景之碑」武将の碑(高さ124センチ、幅125センチ)は、大正3年、長篠古戦場顕彰会により建立された。その右の「山県墓」の墓碑は吉田(豊橋市)上伝馬の住人夏目可敬の成した『三河国名所図絵』に「山県墓」とあるが、可敬は文久2(1862)年に没しているので、これ以前に誰かにより建立されたことになる。高さ105センチ、幅36センチ程の自然石の墓である。この右に宝篋印塔が立ち、右横に子甚太郎昌次の墓が並んでいる。『藷山随筆』によれば山県甚太郎昌次、従士名取又左衛門道忠之墓は「石塔は尺三四寸(40センチ)の野面石に左のやうなる書付有之候」とある。更に右に「高坂又八郎助宣之墓」がある。『藷山随筆』に「新間原の中にて候が土饅頭有之其上に、小さき石塔に高坂又八郎助宣之墓と記し有之候」とあり、設楽原をまもる会は今は無き『藷山随筆』の墓碑を哀れみ、平成9年3月再建した。助宣は、高坂弾正夫妻の極めて身近な一族の一人であると推測される。
(東三河の史跡めぐりより)

天正3(1575)年5月21日、夜来の雨が上がった早暁、鳶ヶ巣山方面の武田軍砦に上がった銃声で、酒井隊の突入を知った大久保隊は、武田軍左翼の山県昌景陣地へ鉄砲を撃ちかけた。勝頼は敵が後方に回ったことを知り、突撃の命令を下し、ここに「設楽原の決戦」の火ぶたが切られたのである。昌景は大久保隊の攻撃を足軽を出して競り合っていたが、次第に誘い込まれて、「あの柵を押し破れ」と三千の赤備えが一斉に突進した。大久保隊は十分に引き寄せて、三百挺の鉄砲を間断なく撃ち続けた。そこで山県隊は、大久保隊の右、連吾川の下流を迂回して柵の無い南側から徳川軍の側方へ出ようとしたが、両岸ともに急峻で渡ることができない。
やむなく山県隊は手勢を率いて雁峯山寄りの佐久間隊へ目標を変え、筋違いに激しい攻撃を加えた。この攻撃に対して織田軍は柴田、丹羽、羽柴隊が側面より、これを阻止しようと戦いを挑んできた。その織田軍を再び山県隊が攻めて追い込み、なお後備えを立て直すと、弾正丘陵のほぼ中央にある徳川本陣に迫ろうとしていた。この山県隊の攻撃を迎えたのは、本多忠勝隊であった。
歴戦の勇将山県昌景は、背は低く、みつ口、胸は一枚あばらで、疲れを知らぬ強靭なからだの持ち主で黒地に白桔梗の旗指物を背に、戦場を駆け巡る姿は、敵味方両軍の注目の的であった。それ故に徳川方銃手の格好の標的となった。
昌景はからだ中蜂の巣のように銃弾を浴びて、遂に両手の自由を失ってしまったが、采配を口にくわえて指揮を続けたという。が、さすがの猛将山県も飛び来た弾丸が鞍の前輪を打ち抜いたため、落馬してしまった。彼の従者である志村又右衛門が走り寄り、主人を抱え後方に退き、打ち寄せる敵軍を前に、志村は主人の首級を切り落とし、遺体にはくれぐれも供養をお願いする旨の書状と短刀「小烏丸」を添えて残し置き、自らは主人の首級を抱えて立ち去ったという。
(設楽原戦場考より)

高坂又八郎助宣之墓について
有海原で討死したと考えられていた又八郎助宣の墓が『藷山随筆』では、新間原にありとある。長篠城監視隊として高坂源五郎昌澄の下で有海原に布陣していた又八郎助宣が、新間原で討死するに至る経緯を考えてみたい。
@長篠城監視隊の任務を解かれた又八郎助宣は、設楽原の本隊に合流し、最後の配陣で本陣左脇備えに属し、新間原から山形高地あたりで、佐久間信盛の臣、佐久間三左エ門に討たれた。(『長篇長篠軍記』による鎌子信治説)
A鳶ヶ巣山の奇襲を知った長篠城監視隊の小山田・相木・天野・高坂又八郎助宣等は、岩代川を渡り救援に駆けつけたがもはやてのつけようもなく、辛くも脱出してきた五味、名和等と共に反転し、設楽原に向かい、その途中、前を行く松平伊忠を討ち取り、一旦本隊に合流した。(『設楽原戦史考』による牧野文斎説)
B遊軍として有海原に布陣していた山県昌景隊が、設楽原に向かうとき、源五郎昌澄の命により山県隊に参加し、以降昌景と行動を共にし討死した。(山県昌景親子と又八郎助宣の墓の位置、山県昌景と高坂弾正との交友関係から推測した仮説)
C前記三説とは逆に、高坂又八郎助宣は源五郎昌澄の部下としてではなく、前述した香坂一党を率いた将として参戦、緒戦から新間原に布陣して討死した。
いずれの経緯をたどったにせよ、新間原に現れた又八郎助宣は壮烈な最期をとげ、設楽原にその名を残すことになる。
(「設楽原戦場考」より)


山県の墓は設楽原歴史資料館から南に向かって歩いていくと途中で右に降っていった所にあります。今回はその右に曲る場所がなかなか見つかりませんでした。思っていたよりもっと南側だったようです。
現地に到着してみると以前より明るい雰囲気でした。多分以前はもっと林の中だったような気がします。西側の斜面の木を伐採したのでしょうか。それにしても山県陣地から西側を見渡せるようになったので良かったと思います。
山県昌景の墓といえば、私の中では三角形の「山県三郎兵衛昌景の碑」だったのですが、今回初めてその右側にある「山県墓」というものが墓であることを知りました。とは言っても墓碑だそうですが。

 



2003年10月12日



「山県の最後胴切りの松に秘め」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)

山県三郎兵衛昌景は武田軍の左翼に陣を敷いた。長篠合戦余話によると、山県昌景は両腕の自由を失ったので采配を口にくわえて指揮していたが、敵の弾丸に馬を撃たれ落馬してしまった。配下の志村又右衛門が胴切山の中腹に昌景を運んだが既に亡くなっていたという。敵が迫ってきていたので首を落として落ち延びたので敵に首は渡すことはなかった。死体は後日ここに埋められ厚く葬られたという。

山県三郎兵衛昌景、山県甚太郎昌次、従士名取又左エ門道忠、高坂又八郎助宣の墓が並ぶ。

 

 
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