渡辺囚獄佑。実名守。源五郎を名乗り、囚獄佑を称した。ちなみに、囚獄佑は官職名であり職務の実体はない。渡辺氏は囚獄佑の祖父知(さとる)の時から武田に仕え甲駿両国の境本栖に住して忠節を尽くしたといわれ、父縄(たたず)の時代には信虎・信玄に仕え功あり、信玄から50貫の知行を与えられている。囚獄佑守はその遺跡を承継し、武田氏に仕えて国境本栖の警護にあたった。武田氏滅亡後の天正壬午年、徳川家康の甲斐入国に際しては、九一色衆17騎を率いて甲駿往還の警護を承り、家康を無事新府に案内、取って返して本栖に戻り、北条勢とその手先の農民一揆を鎮圧した功績により、家康から旧領安堵を保障されるとともに、九一色衆の頭目としての立場を公認された。
渡辺囚獄佑屋敷跡の東北隅の一区画に五輪塔数基が祀られ渡辺囚獄佑の墓といわれている。五輪塔の形態から判断して中世末期から近世中期頃造建されたものと推定される。
囚獄佑の墓といわれる五輪塔は、崩れかけた石垣積みの上にあり、あるいは地輪を欠き、あるいは地・水輪の上に他の塔の火輪や風・空輪を乗せるなどどの塔も完好とはいえず、五輪塔の祀られた樹木の生い茂る古木の根方は薄暗く荒れ果て、歴史の重みがひしひしと感じられる。
(上九一色村の史跡より)
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