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愛知県新城市

和気善兵衛宗勝之墓

2014年08月15日

和気善兵衛宗勝の墓
久間山砦を守備中、酒井忠次の鳶ヶ巣奇襲隊に背後を衝かれ、有海で討死した。
(戦国の陣没将士墓苑記載文章より)

稲場は飯田線鳥居駅と新昌寺の裏手を結ぶ道路の南一帯の地である。その稲場に、長篠古戦場顕彰会が建てた「伝高坂又八郎助宣之墓」がある。この墓のことについて地元の郷土史研究家は「高坂助宣は本陣付の武将として設楽原で戦い、新間原で討死した。この点から考えると、この高坂の墓というのは疑問で、『藷山随筆』に従えば、和気善兵衛の墓ではないかとも思う。和気は久間砦の主将で、久間山で戦死したと思うが、あるいは有海まで逃れて、ここで戦死したかもしれない」として、伝高坂又八郎助宣之墓は和気善兵衛之墓ではないか、と疑問を投げかけている。
(設楽原戦場考より)

和気善兵衛(脇とも書く)は元駿河国今川家の家臣という。今川家滅亡の後、武田家に仕え駿河先方衆として働いた。天正3年、長篠・設楽原の戦いでは主将として久間山砦に陣して戦った。
『鳳来町誌』に
鳳来町乗本字川添八八番地、俗に十海津と称する山頂をもってこの砦と認めた。頂上に平地、後方に高地、本陣地跡と見る所は、前にも横にも土居と堀の形が残っている。
長篠方面、篠場野、有海原の一帯が近距離に展望できる。なお五砦のうちでは最も川へせり出しているので、川の監視、渡河点の確保もこの砦の重要な任務であったであろう。
(中略)21日の戦いで、この方面砦の敗兵が、左岸沿いに下って逃げるのを2キロ下方、樋田で設楽貞通の軍が待ち受けて討った。その逆、徳川軍が左岸を進撃して来た時、それを阻む任務が計画の中にあっても不思議ではないと思われる。
昔の川沿い道は、日吉方面から進み、市川で深沢川をかなり上り、山腹を横切って久間を下って豊川べりへ出たというので、久間は要所だったのである。
この砦は、和気善兵衛宗勝、大戸民部直光、倉賀野淡路守秀景、原備前守胤成、三百騎、野川浪人組三百余人。(中略)
久間山は要害無双で、その山上一帯に砦を構えたのである。この砦を攻撃した奥平貞能と松平康長は、中山砦の陥落まで、砦兵を外に出さないようにしていた。他の砦は陥ちて奇襲軍は久間山に集中するが、放火によって砦は火焔に包まれ、和気善兵衛は火中に投じて自決した。
(設楽原戦場考より)

 



2012年05月04日

和気善兵衛宗勝の墓
久間山砦を守備中、酒井忠次の鳶ヶ巣奇襲隊に背後を衝かれ、有海で討死した。
(戦国の陣没将士墓苑記載文章より)

稲場は飯田線鳥居駅と新昌寺の裏手を結ぶ道路の南一帯の地である。その稲場に、長篠古戦場顕彰会が建てた「伝高坂又八郎助宣之墓」がある。この墓のことについて地元の郷土史研究家は「高坂助宣は本陣付の武将として設楽原で戦い、新間原で討死した。この点から考えると、この高坂の墓というのは疑問で、『藷山随筆』に従えば、和気善兵衛の墓ではないかとも思う。和気は久間砦の主将で、久間山で戦死したと思うが、あるいは有海まで逃れて、ここで戦死したかもしれない」として、伝高坂又八郎助宣之墓は和気善兵衛之墓ではないか、と疑問を投げかけている。
(設楽原戦場考より)

和気善兵衛(脇とも書く)は元駿河国今川家の家臣という。今川家滅亡の後、武田家に仕え駿河先方衆として働いた。天正3年、長篠・設楽原の戦いでは主将として久間山砦に陣して戦った。
『鳳来町誌』に
鳳来町乗本字川添八八番地、俗に十海津と称する山頂をもってこの砦と認めた。頂上に平地、後方に高地、本陣地跡と見る所は、前にも横にも土居と堀の形が残っている。
長篠方面、篠場野、有海原の一帯が近距離に展望できる。なお五砦のうちでは最も川へせり出しているので、川の監視、渡河点の確保もこの砦の重要な任務であったであろう。
(中略)21日の戦いで、この方面砦の敗兵が、左岸沿いに下って逃げるのを2キロ下方、樋田で設楽貞通の軍が待ち受けて討った。その逆、徳川軍が左岸を進撃して来た時、それを阻む任務が計画の中にあっても不思議ではないと思われる。
昔の川沿い道は、日吉方面から進み、市川で深沢川をかなり上り、山腹を横切って久間を下って豊川べりへ出たというので、久間は要所だったのである。
この砦は、和気善兵衛宗勝、大戸民部直光、倉賀野淡路守秀景、原備前守胤成、三百騎、野川浪人組三百余人。(中略)
久間山は要害無双で、その山上一帯に砦を構えたのである。この砦を攻撃した奥平貞能と松平康長は、中山砦の陥落まで、砦兵を外に出さないようにしていた。他の砦は陥ちて奇襲軍は久間山に集中するが、放火によって砦は火焔に包まれ、和気善兵衛は火中に投じて自決した。
(設楽原戦場考より)

和気善兵衛宗勝之墓は、新東名工事のため新昌寺本堂裏に移設されていました。鳥居強右衛門の碑の横になります。すぐ後ろには新東名が開通する予定のようで工事が進められていました。

 

 
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