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山梨県山梨市

雲光寺

2013年09月21日

雲光寺はほ保元3(1158)年に甲斐源氏安田遠江守義定が開基し、真言宗の僧都了寿阿闍梨を開山として創建された。応永2(1395)年に夢窓国師の高弟・絶海中津和尚によって真言宗から禅宗となった。安田義定をはじめ一族の墓カがあることで有名である。
安田義定は源九郎義経の副将として平家追討の際に多くの戦功をあげ、鎌倉幕府創立の功績者であった。しかしその後、義経が追討されたのと同じように、安田の勢力の伸張を恐れた源頼朝によって滅ぼされた。義定の嫡子義資が鎌倉で殺害されたのは建久4(1193)年で、その翌年義定も鎌倉方に討たれている。嫡子義資の遺品は雲光寺に葬られたといわれ、翌年の建久5年には義定と三郎義季の遺骨を最期の地・牧丘からこの地に移し、埋葬したと伝えられている。
(甲斐百八霊場より)

本堂


安田義定一族之墓

五輪塔

県指定有形文化財
安田氏五輪塔付宝篋印塔
この三基の五輪塔は甲斐源氏の雄安田義定の墓標で、中央が義定、向って左が義資、右が義季のものと言われている。義定は源頼朝と共に平氏を討ち、遠江守に任ぜられ、広く峡東地方を所領としたが、謀反の簾で建久5(1194)年、頼朝に攻め滅ぼされた。
各塔は下部から地・水・火・風・空の五輪を象徴している。最上部の空輪は平安調の団形、風輪は中央塔が桝形で他は平底で腰の深い椀形を示す。火輪の屋根の勾配はゆるやかで反りが深く、軒巾は塔全体のつり合いからやや大きいと思われるが、一種の軽快感を与える効果をもっている。水輪は球状体の上下を切り背が低いので重量感を受ける反面、安定を増す要素ともなっている。
三基とも水輪の四面で梵字が刻まれており、鎌倉中期の代表作として、石像美術上貴重な構造である。
宝篋印塔は基礎に「貞治2(1363)年癸卯十一月 武田氏…(他不明)」があり、武田信成が安田一族供養のため建立したもので、法要の事実を伝える有力な史実と言える。
(看板資料より)

宝篋印塔



2006年01月01日

雲光寺は安田義定が開基したもので、境内には安田義定とその一族の墓があります。安田義定は源義経の副将として平家追討に活躍し、NHK大河ドラマ「義経」にも出てきていました。平家が滅んだ後は、義経と同じ運命をたどり、頼朝に滅ぼされてしまいました。

県指定有形文化財
安田氏五輪塔付宝篋印塔
この三基の五輪塔は甲斐源氏の雄安田義定の墓標で、中央が義定、向って左が義資、右が義季のものと言われている。義定は源頼朝と共に平氏を討ち、遠江守に任ぜられ、広く峡東地方を所領としたが、謀反の簾で建久5(1194)年、頼朝に攻め滅ぼされた。
各塔は下部から地・水・火・風・空の五輪を象徴している。最上部の空輪は平安調の団形、風輪は中央塔が桝形で他は平底で腰の深い椀形を示す。火輪の屋根の勾配はゆるやかで反りが深く、軒巾は塔全体のつり合いからやや大きいと思われるが、一種の軽快感を与える効果をもっている。水輪は球状体の上下を切り背が低いので重量感を受ける反面、安定を増す要素ともなっている。
三基とも水輪の四面で梵字が刻まれており、鎌倉中期の代表作として、石像美術上貴重な構造である。
宝篋印塔は基礎に「貞治2(1363)年癸卯十一月 武田氏…(他不明)」があり、武田信成が安田一族供養のため建立したもので、法要の事実を伝える有力な史実と言える。
(看板資料より)


小田野山城址と安田義定廟所
腹切地蔵尊
放光寺

 

 
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