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長野県南佐久郡南牧村

海ノ口城


2015年06月28日

城の構造
本丸背後の堀切が極めて深く又大きいことは他に比べても少ない。水の手は南方約280メートル下った谷間にある。本丸は約230平方メートル(約70坪)あり、二の曲輪、三の曲輪の跡もあるが今は荒れ果てている。
海の口城址に関する歴史と伝説
平賀源心(成頼)の出城で別名鳥井城ともいう。平賀氏は現在の佐久市平賀の平賀城城主であった。永正、大永年間の頃から甲斐(山梨県)の武田氏としばしば兵を交えた。文安、宝徳ごろからこの城によっていた。
天文5年武田信虎は兵7、8千人を率い、この城を攻めた。平賀氏は兵3千にて城を固く守り落城の気配は無くまた大雪降りしきりやむを得ずいったん甲斐に帰陣することにした。この時父信虎とともに海ノ口城攻略に加わっていた武田晴信(信玄)は隊列のしんがりにいて父のゆるしを得て兵三百人を率いて途中より引き返しこの城を奇襲した。一方平賀源心は武田氏の帰陣するを知り城の守りを解き兵を年取りに家に帰してくつろいでいた。そこへ武田氏の奇襲に逢い剛胆七十人力といふさすがの源心も虚をつかれあえなく戦死し海の口城は落ちたのである。武田信玄はこの時若干16才で初陣のてがらをたてた。時天文5年12月28日であった。
(看板資料より)

本丸奥にある展望台

本丸背後の堀切

本丸下の帯曲輪からの八ヶ岳連峰

登山道

 



2012年05月02日

門松を立てない話
海尻や海ノ口の井出一族では正月の門松を立てない。天文5(1536)年12月武田信玄が海ノ口城を攻めた時に、城主平賀源心は部下を励まして戦ったが、年の暮れに討死した。源心の家来であった井出一族は、門松を立てたり、餅をつく暇が無かった。今でもその通りにしているが「祖先の事を思えば派手に正月を祝うなどということはできない」からだという。それで、井出一族は戦の苦しみを思い主家に遠慮して、ごく簡単に屋内に松を飾って心ばかりの年取りをした。
また一説に、源心の家来が逃げて来て、井出一族にかくまってもらった。そのためその人達に遠慮して門松は立てないので、家の中だけ松を飾るのだともいう。また、お餅は1月3日につくことになっている。それは、この戦のために忙しくてやっと3日になってから餅をついた。その後、一度年の暮れに餅つきをしたが、あやまって手返しの者を叩き殺してしまった。そしてその年にはやり病が出て困った。それから又、元通りに1月3日につくことにした。今でもこれは続けられている。
(南牧村の伝説より)

 



2004年04月03日

千曲川と海ノ口城跡

朝4時すぎに自宅を出発して、ちょうど7時に海ノ口に到着。南牧村役場をすぎて少し行ったところの千曲川にかかっている橋の上から海ノ口城跡の写真を撮りました。実はこの写真のどの峰が海ノ口城なのか未だに定かではありませんがきっとこの方角で間違いないと思います。ここに来るのはこれで5回目ですが前回既に本丸?登頂に成功しているので今回は一番上までは行かずに、車で行かれるところまで登ってみました。

 


2003年06月29日
2000年10月04日に初めて訪れてから3年経ち、4度目でやっと目的の場所にたどり着くことができました。去年の10月に来ていたので大体の場所は分かっていたのですが朝早かったこともあってまだ薄暗く、また途中道がなくなりかけそうになったこともあり小心者の私には一人では行けなかったかもしれません。

城の構造
本丸背後の堀切が極めて深く又大きいことは他に比べても少ない。水の手は南方約280メートル下った谷間にある。本丸は約230平方メートル(約70坪)あり、二の曲輪、三の曲輪の跡もあるが今は荒れ果てている。
海の口城址に関する歴史と伝説
平賀源心(成頼)の出城で別名鳥井城ともいう。平賀氏は現在の佐久市平賀の平賀城城主であった。永正、大永年間の頃から甲斐(山梨県)の武田氏としばしば兵を交えた。文安、宝徳ごろからこの城によっていた。
天文5年武田信虎は兵7、8千人を率い、この城を攻めた。平賀氏は兵3千にて城を固く守り落城の気配は無くまた大雪降りしきりやむを得ずいったん甲斐に帰陣することにした。この時父信虎とともに海ノ口城攻略に加わっていた武田晴信(信玄)は隊列のしんがりにいて父のゆるしを得て兵三百人を率いて途中より引き返しこの城を奇襲した。一方平賀源心は武田氏の帰陣するを知り城の守りを解き兵を年取りに家に帰してくつろいでいた。そこへ武田氏の奇襲に逢い剛胆七十人力といふさすがの源心も虚をつかれあえなく戦死し海の口城は落ちたのである。武田信玄はこの時若干16才で初陣のてがらをたてた。時天文5年12月28日であった。
(看板資料より)


上の写真のところに車を止めて歩いていくのが正解です。三角帽子の建物の下に立てかけてある白い棒に「海ノ口城跡入口」と書いてあるのですが、1回目に来たときは夕方、2回目は朝4時前くらいだったのでこの棒を見逃していたのです。3回目の去年はチェイサー号でここから更に登っていきましたが今回はここに車を置いて歩いていきました。頂上までの時間は30分くらいだと思います。
歩いていくと所々案内板が出てきます。「ここから徒歩40分」の看板を見ても、そんなにかからずに登れますのでひるんではいけません。
途中広いところがあるのでそこまでは車で登れそうですがその先は道らしきものがなくなってしまいます。しかし所々出てくる案内板に従っていけば何とかたどり着けるでしょう。


ここは右へ行きます。


ひるまずに直進!!

ここらへんまで来ると水が流れている音が聞こえます。水の手があった場所かもしれません。この先に行くと再び山を登り、登りきったところを更に右に進んだところが目的地の海ノ口城です。


頂上にある展望台


頂上から上の写真のような景色が見えました。多分千曲川にかかっている橋は国道141号線から海ノ口城に来るときに通った橋だと思います。

 

 
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