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長野県飯山市

内池館

2012年11月18日

この館跡は中世の武士の館跡であり、志久見集落の西の高台、内池と呼ばれる地にあります。館跡は平安時代末から戦国時代までこの地の領主であった市河氏に関係するものと伝えられています。
田んぼの整備などにより現状はほとんど失われていますが、もともとは掘または自然のくぼみにより、土塁で囲まれた30〜百メートル四方の二つの郭(外囲い)で構成されていたようです。土塁は明治初年までは南方・東方一帯にあったといわれており、「たて」「たての田」「たて尻」「堀の外」など館に関係する字名および、「八幡」「八幡沖」など館跡に祀られていたらしい氏神に関係する字名が残っています。この館跡は立地や形態から考えて、戦国時代以前の館跡であったと思われます。
志久見内池館跡保存会
(看板資料より)

市河文書に含まれる「弘治3年(1557年)6月23日付武田晴信書状」(書簡)は、1557年(弘治3年)の第三次川中島の戦いで、武田晴信(信玄)が市河藤若に宛てた感状で、最後に「猶可有山本菅助口上候」(詳しくは山本管助が口上で申しあげる」と記されており、与力豪族への使者となるに相応しい地位にあったことが確認された。(どの程度の地位 / 身分を想定するかで諸説ある)。
この文書の評価を巡っては、上野晴朗ら勘助の実在性を示す文書として積極的評価する立場がある一方で、武田家中に「山本管助」と称する家臣が存在することを示すのみの文書であるとし、『軍艦』に記される人物像に関しては不確実とする慎重な立場もある。
ウィキペディア 釧路市河家文書より)

武田晴信(信玄)書状
縦紙で寸法は縦28.0センチメートル、横40.8センチメートル。巻子装。
内容は弘治3年(1557年)の第三次川中島の戦いに際した長尾景虎野沢之湯出陣に対して、武田方の援軍出兵を市河藤若に対して報告した書状。この際に使者として「山本菅助」が派遣されており、「山本菅助」の名は市河家文書以外では群馬県安中市の真下家文書のみに確認される。

注進状披見仍景虎至于野沢湯進陣
其地へ可取懸模様又雖入武略候無同意剰
備堅固故長尾無功而飯山へ引退候哉誠心地
能候何ニ今度其方擬頼母敷迄候就中野沢
在陣候砌中野筋後詰之義預飛脚候き則倉
賀野へ越上原与三左衛門尉又当手之事も塩田
在城之足軽為始原与左衛門尉五百余人真田江
指遣候処既退散之上不及是非候全不可有
無首尾候向後者兼存其旨塩田之在城衆ニ
申付候間従湯本注進次第ニ当地へ不及申
届可出陣之赴今日飯富兵部少輔所へ成下知候
条可有御心易候猶可有山本菅助口上候恐々
謹言
  六月廿三日  晴信(花押)
 市河藤若殿
WIKISOURCE 市河家文書より)

 


第3次川中島合戦の際に、武田晴信が市河藤若に当てた書状に「山本菅助」という使者の名前が登場することは知っていたのですが、今回はその市河氏の本拠地である館跡を訪れました。あいにくの雨でした。前日に塩沢石打に宿泊して翌日の朝一番での訪問となりました。まず驚いたのは長野県とは言っても新潟県との県境に存在していることでした。こんな場所にいた市河氏を勧誘すべく武田晴信は山本菅助を使者として遣わしていたのです。館跡の周辺は広大でほとんど田んぼになっていました。

 


安中市学習の森ふるさと館

 

 
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