内池館 |
2012年11月18日 |
この館跡は中世の武士の館跡であり、志久見集落の西の高台、内池と呼ばれる地にあります。館跡は平安時代末から戦国時代までこの地の領主であった市河氏に関係するものと伝えられています。 |
市河文書に含まれる「弘治3年(1557年)6月23日付武田晴信書状」(書簡)は、1557年(弘治3年)の第三次川中島の戦いで、武田晴信(信玄)が市河藤若に宛てた感状で、最後に「猶可有山本菅助口上候」(詳しくは山本管助が口上で申しあげる」と記されており、与力豪族への使者となるに相応しい地位にあったことが確認された。(どの程度の地位 / 身分を想定するかで諸説ある)。 |
武田晴信(信玄)書状
第3次川中島合戦の際に、武田晴信が市河藤若に当てた書状に「山本菅助」という使者の名前が登場することは知っていたのですが、今回はその市河氏の本拠地である館跡を訪れました。あいにくの雨でした。前日に塩沢石打に宿泊して翌日の朝一番での訪問となりました。まず驚いたのは長野県とは言っても新潟県との県境に存在していることでした。こんな場所にいた市河氏を勧誘すべく武田晴信は山本菅助を使者として遣わしていたのです。館跡の周辺は広大でほとんど田んぼになっていました。
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