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群馬県安中市

安中市学習の森ふるさと館

2009年09月05日

山本勘助の存在を示唆する書状が群馬県で見つかり、安中市学習の森で展示されているとのことで今回立ち寄りました。
資料は5点あって安中市の真下家から発見されたとのことでした。5点の文書は巻子になっているので全部を一度に展示することは難しいらしく、資料1の部分だけが展示されていました(上の写真)。

資料1
 武田晴信が山本菅介に対して信州伊那郡における働きを賞し、恩賞として黒駒(笛吹市御坂町)の関銭のうち100貫文を充行うことを記している。日付の天文17(1548)年4月は、武田晴信が村上義清と争い敗れた上田原の戦いの後であり、信濃における武田氏の支配が動揺する次期にあたる。4月3日には甲府に出仕していた諏訪頼継が甲府を発ち、途中諏訪で宝鈴を鳴らして五日に高遠城に帰っているが、同じく五日に村上義清・小笠原長清らが諏訪に侵入し、諏訪社下宮に放火している。また4月15日の諏訪社御柱祭も厳重な警護のもとで行われているなど、諏訪を中心に武田氏に反対する勢力の動きが顕在化している。
 天文17年4月以前に、山本菅介が伊那郡においていかなる働きをしたかは明らかにしえないが、以上のような経緯をかんがみれば、菅介が伊那郡において課せられた役割は小さくなかったといえよう。
(群馬県安中市 真下家文書の紹介と若干の考察より)

資料2
 晴信が山本菅助からの報告に対して指示を出し、小山田の病の様子を見届けてくるよう命じた書状である。文中には「小山田腫物相煩既ニ極難義候」とあり、この時点で小山田はすでに重篤な状態であると判断できる。晴信の次期に死去する小山田氏で、晴信が「当州宿老」と呼ぶに相応しい人物は、小山田出羽守信有以外には存在しないだろう。小山田出羽守信有は天文21(1552)年正月23日に死去しているので、本文書の内容を信頼するならば、その年代は天文20年に比定できよう。
 付箋には「信玄公御自筆」とあり、装幀者が本文書を晴信の自筆書状であると判断しているのは、注目すべき点といえる。信玄自筆文書の特徴である筆の濃淡が極端についている点、また、別の信玄自筆文書でも用いられている「必々」という文言がある点など、自筆と判断して差し支えない要素を備えたものである。ただし、日付の位置がやや高いことと、花押の筆勢を欠く点で違和感無しとはいえず、本文書を信玄自筆の正文とすることについては、即断を避けたい。
 しかし、本文の内容は後世新たに作る必要があるものではなく、少なくとも文書の内容については良質のものと考えられる。
 内容は難解である。推測の域を出ないが、本文書を天文20年のものとすれば、4月20日の段階で「揺巳下之義」「調談」を必要とする事態は、信濃国小県郡の戸石城(長野県上田市)に関わることではなかろうか。戸石城は、同年5月26日に真田幸綱が攻略したとの記録があるが、直近の次期に武田方の軍勢の動きを伝える記録に乏しいことから、一般的には幸綱調略によって攻略したものとされる。本文書の内容が戸石城に関するものとするならば、山本菅助がこれに関与していたことを示すものとなろう。
 また、小山田信有を「当州宿老」と呼ぶ点にも注目できよう。これまで一次資料の中に武田家家臣団の構成員を表す語としての「宿老」は確認されていなかったが、本文書により武田家中における「宿老」の存在をうかがうことができよう。
(群馬県安中市 真下家文書の紹介と若干の考察より)

資料3
山本菅助に不足していた武具の支度を命じたものである。朱印の色はやや濃すぎるきらいがあるが、形状、大きさは問題ない。永禄11年の武田氏の動向は、6月3日に上杉氏家臣本庄繁長の謀反に呼応して越後に出兵し、7月10日には信濃国水内郡の飯山城(長野県飯山市)を攻めるなど、越後への攻勢を強めていた。本文書も越後侵攻を意識して、武具の整備を命じたものと考えられよう。
(群馬県安中市 真下家文書の紹介と若干の考察より)

資料4
山本十左衛門尉に対して負担するべき軍役の内容を示したもので、十左衛門尉は鉄炮一挺、持鑓一本、長柄二本、小幡一本の用意が命じられている。日付は年号を欠いているが、同日付で同文、同形式の有年号文書が複数残っており、それらの文書と同じ天正4(1576)のものと思われる。年号が無いのは異例だが、日付の高さは他の文書とほぼ同様であるので、本来は年号を記すつもりであったが、同様の文書が多数発給される中で、何らかの事情により書かれなかったものと推測できよう。したがって、本文書に対する評価に影響は無いものと考える。
 本文の内容は、指示された武具の条件を記した割書の内容や、奉者が記されていない点など、細部に到るまで他の軍役定書と一致している。料紙は通常のものに比べて幅が若干短いが、この点についても同文の他の文書とほぼ一致している。天正4年に一斉発給された軍役定書の料紙は、すべて同規格であったことをうかがわせるものである。
 充所は、これまでの三通が「山本菅助(介)」であったのに対し、「山本十左衛門尉」に変わっている。山本十左衛門尉については、すでに柴辻俊六氏が紹介しているが、もとは饗場越前守利長の次男で十左衛門頼元を名乗り、勘助の娘を妻として山本に改姓したという。この所伝が信頼しうるものかは判断しえないが、『天正壬午起請文』に「信玄直参衆」として名を連ね、徳川家康から所領安堵の朱印状を受けていることなどから、武田氏滅亡後に徳川家康に仕えた実在の人物として認めてよいだろう。前三通の流れからみれば、山本十左衛門尉は山本菅助の後継者という位置付が妥当と思われる。
(群馬県安中市 真下家文書の紹介と若干の考察より)

資料5
結城秀康が山本平一の訪問に対して礼を述べ、自らの病のために早く帰らせてしまったことを詫びた上で、礼物を送り、使者を遣わす旨を伝えている。黒印は秀康が用いたものとして問題ない。秀康の「煩」に着目すれば、本文書は慶長7(1602)年から同11年の間のものと推定できよう。
 山本平一は、前四通からみれば菅助・十左衛門尉の子孫とみることができよう。山本平一と結城秀康との関係については判然としないが、資料3でみたごとく、山本十左衛門尉は武田氏の滅亡後、徳川家康に仕えているので、秀康と何らかの関係を有していた可能性は否定できない。
 越前松平家に伝わる藩士の系図を網羅した「諸士先祖之記」によれば、秀康の時代に召抱えた家臣として山本内蔵頭成本と山本清右衛門の名を見ることができる。このうち、内蔵頭については、生国を三河、先祖は加茂次郎義満より相続して近年は山本勘助に到るとするが、系図は焼失して不分明であるという。清右衛門については、山本勘助を出自にはしていないものの、もとは武田信玄に仕え、その後徳川家康に仕えて井伊直政麾下に属したのち、秀康に召抱えられたとする。
 両者のうちのいずれかが山本平一と関わりのあるものということは明確にしえないが、山本と名乗る武田遺臣が結城秀康に仕えていた点は注目できよう。秀康は他にも武田氏家臣山県三郎兵衛尉昌景の子孫を自らの家臣とし、福井藩では家老に任じて重用しており、武田遺臣への関心の高さがうかがえる。
 ただし、山本平一を秀康の家臣とするならば、秀康のこの書状は厚礼に過ぎるきらいがある。平一の立場や秀康との関係については、さらに検討する必要があろう。
(群馬県安中市 真下家文書の紹介と若干の考察より)

 

 
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